まぎれている

森のなかで光っているものは、その場所にまぎれているからいい。
たとえばその光っているものをそこから取り出して、持ち帰って、家のなかで眺めたとしても、それは森のなかで見る時ほどの光を放つことはないだろうと思う。
なにげないから光るもの、まぎれているから光っているもの。そんなものたちを見つけて、記憶して、その横を歩いていくとき、小さなうれしさが身体の中をしーんと通りすぎていく。

壁と木

もしも壁に感情があるとしたら、自分の目の前にたっている木の姿を明るい光の中でまるごと全部うけとめたときの気分はどんなだろう。もしも木に感情があるとしたら、思わず自分の姿を映してみたくなる壁はどんな壁だろう。ただの壁とただの木が、よく晴れたきれいな冬の午後の時間に、静かに並んで立っていた。

花の跡

咲いているときよりも、あざやかに見えたもの。

螺旋

川沿いの公園に、ひっそりと誰もいない空き地のような場所があって、去年のあたたかい時期には時たまそこに歩いていっては、いつもより広い空を見上げてみたりしていた。

その公園の空き地のあたりにはよく、まるでテントを担いで山に登るかのような大きな荷物を背負ったひとがいて、ある秋の朝、そのひとがその空き地のような場所を横切って、フェンスに沿って土のスロープをのぼり、どこかむこうのほうへと歩いていくのが見えた。
土のスロープをあがった先に、その空き地のフェンスのむこうに出ることのできる道があることをその時の自分は知らなくて、自分の近くを通りすぎて、うつむき加減でゆるやかなスロープをのぼっていったその人の姿が、どういうわけだかその後もしばらく記憶に残った。

この前のある日。その空き地の前を通りかかると、土のスロープのまわりに太陽の光が落ちていて、その光が時計回りの螺旋を描いて、スロープのうえの、フェンスに沿った道の先のほうへと続いているのが見えた。大きな荷物のひとの姿は見あたらず、あたりでは鳥たちが地面に落ちた実を静かについばんでいた。なんていうことはない螺旋の形が、地面のうえに何かの軌跡を描いているようで、美しかった。

小さな世界

若い頃に衝撃をうけたひとつの短い文章が、きのうたまたま机の上に出してあった本の表紙に小さく印刷されていて、その文があまりにもいまの自分にすーっと響いてきて、驚いた。若い頃の自分は、この文のいったいどこに衝撃を受けたんだろう。。今だからこそ実感をもって読むことのできる、強くて芯のある低い言葉だった。

それからそのひとが、自分のつくっているものや仕事は誰かの小さな世界を守るためのものだ、というようなことを別のところでハッキリと書いているのを目にして、あらためてもう一度、ハッとした。その言葉はそのひとが自分の手でつくった小さな家のことを、まるごと一言であらわしているような、研ぎ澄まされたやわらかい言葉だなあと思った。

そのひとにはあるとき一度だけ偶然にお目にかかったことがあって、その日、そのひとが座っていた小さな家の中の巣のような暗がりに、いまの自分の意識をもう一度集中させて、記憶のなかのそれを手探りで探ってみたりした。木の梯子をのぼった先にはたしか、誰もいない静かな屋根裏の部屋があった。

とりかえしのつかなさ

ふつうに暮らしていると、だいたいのことはいつも決まってとりかえしがつかない。

観葉植物を枯らしてしまったこと。山を歩いて何かを踏みつけてしまったこと。ラーメンに胡椒をふりすぎてしまったこと。珈琲をこぼしてしまったこと。大事な友人の展示を見逃してしまったこと。歯が欠けてしまったこと。誰かが嫌だなあと感じるようなことを言ってしまったこと。

小さなことであれ、そうでないことであれ、水のようにすーっと流れ去っていく時間のうえでは、だいたいのことはおおむね、とりかえしがつかない。

ひとは誰だって日々とりかえしがつかないことをしているのだと実感するからこそ、何かをしようとする時にそれが大事なことであればあるほど、そのことにしっかりと向き合って、そのことに集中して、それから自分が「これだ」と思う何かを慎重に責任をもって行動に移すのではないか。

それは本当にふつうのこと、毎日の暮らしの場でふとした瞬間に感じるふつうのことで、暮らしの場所から仕事場に行って机にむかって自分の手で図面を描くときも、そんなふうな普段の感覚と同じ感覚の中で図面を描いていたいなあという気がする。

紙のうえに溢れた錯綜する鉛筆の線をひとつでも消すことは、容易なことではない。ひとつの線を消しゴムで消すと、ほかの線も消えてしまう。生半可な気持ちで紙の上に描いてしまった線は、本当にとりかえしがつかない。だから1本の線を大切にする。大切に引く。その1本の小さな線のことをしっかりと考えて、そのことに意識を集中させて、それから机のうえに三角定規を添えて一気に手を動かす。そのことの中に、小さくはない手ごたえがある。

ふつうに毎日を暮らしていることと何かをつくっていくことが、別々の地平のうえではなく、同じ地平のうえで当たり前のように繋がっていたら良いのになと思う。

一月の水

冬の朝は、コップの水を透過してくる光がだんだんと強まったり弱まったり、あるいは少しずつその模様やかたちを移ろわせていくさまを、何も考えず、ただ漫然と眺めているうちに、ふと気づくと思わぬ時間が経っている。。コップの水はなぜだかよく分からないけれど、残された時間のようなものを想起させるところがあって、不思議で、それからどことなく懐かしい。

朝の枝

机の前にすわって、朝のひかりを感じる。窓の外では、何年も前からゆっくりと育ってきたユキヤナギが、自分と同じように暖かい朝日をあびて佇んでいる。スズメの声、羽の音、少しの風。

最初はおぼろげに見えているだけだったユキヤナギの枝が、こちらが珈琲を飲み終える頃にはぼんやりと、それから次第にくっきりと、ざらついたガラスのうえに浮かんでくる。その様子を茫々とながめているうちに、今日もいつもの一日がいつの間にか、ひっそりとはじまっていく。

あの枝のような線を描けたら、なにかが生きている鼓動をかすかにでも伝えることのできる線を描けたら、きっと素晴らしいだろうなあと思った。

ある尾根の木

深い霧が出ていた日。山の上のひらけた場所で、枯れたまま立ち尽くしている木があって、その立ち枯れた木の枝のかたち、その手のさしだし方に思わず目がいった。そぎ落とされ、骨格だけになってもなお、何かが生きた鼓動をしっかりと記録しながら立っているもの。内部がすかすかに空疎なものとなってもなお、その場所のうえを通りすぎていったものの記憶をぼんやりと見つめているもの。そんなものが、ほかにいくつあるだろう。

午後のこと

午後。部屋にある机の前にすわって、窓の外を見る。

南の窓から見える小さな公園には、葉っぱを落とした1本の木が大きく枝をひろげて立っていて、その木の丸い樹形の中から、ひとつの枝がひょろりと空につきだしている。ちょっとだけ、のびすぎてしまったのかなと思う。あの枝がのびたいように、空を見上げてそのまま自由にのびていってくれたら良いなと思う。

振り返ればいつだって、近くて遠いその木の姿を目の端に見据えながら暮らしてきたような感じがする。新緑の葉っぱが風に揺れる澄んだ音色が、毎朝のように部屋の中を通り抜けていた去年の春のことを、少しだけ思いだす。

つき出た枝の脇のあたりで動いていた小さな影が、ふいに目の前のベランダに飛んできて、窓の外の手摺にとまる。このところ毎日やってくるようになった1羽のヒヨドリが、いつものようにポサポサに頭の毛を逆立てた寝起きのような顔のまま、ランランとした丸い目で窓の内側を覗きこんでいる。

西の窓から入ってくる低い日射しが、机の上の飲みかけの珈琲に射してきて、その隣にある煉瓦色の小さなCDコンポを照らしはじめる。濃い黄色を帯びた光が重たいベースと透明なトランペットの音色をくるみながら、深いような乾いたような不思議なこだまを部屋の中に響かせて、その音と光の隙間からまどろんだ午睡の気配のようなものがゆっくりと溢れだす。

「ヒーョ!」

突然、甲高い声でヒヨドリが鳴いて、それからまたいつものように公園の木の中に翼をひろげて帰っていく。ふと顔をあげると、大きな木がだんだんと暗い影そのものになって、少しオレンジがかった空を背にくっきりと黒く自分のかたちを浮かびあがらせているところが見える。窓の外の夕陽が、今日一日の仕事を終えて急ぎ足で西のビルのむこうに消えていく。

変わらずにいつもそこに在るということは、何かから遅れていることや何かよりも劣っていることを意味しない。変わらないということは、強さなのだと思う。

大晦日

今年もたくさんのひとにお世話になり、たくさんの場所に支えられ、たくさんの言葉に勇気づけられました。そのすべてに、この場をかりてあらためて御礼申しあげます。

自分にできることは本当にあまりにも小さなことですが、これからも地べたに足の裏をしっかりつけて、生きてていくこととつくっていくことがゆるやかに結びついた地平のうえを、自分の足で、自分の歩幅で、そろりそろりと静かに歩いていけたらと思っています。

来年も、どうぞ宜しくお願いいたします。

目をつぶって、暗いまぶたのむこうにある木を見上げる。
そうしたら、そこに全部ある。

耕す

耕されていないところを耕すひとに、いつだって大きな憧れを抱いている。
自分は誰かの手によって耕されたところに立っているのだということを、いつもちゃんと自覚して立っていなければと思う。そのことをまずははっきりと知ってから、それから、自分自身の手でひとつひとつ、手の届く範囲を耕していけたら良い。耕すひとに少しずつ、そーっとそーっと近づいていけたらいい。

鯉と蓮

先月のある日。明るい水面に浮かぶ一面の蓮の枯れ葉のなかに、いくつかまだ枯れきっていないものがあって、そのひとつの上に花や葉っぱの枯れ跡がたまっていた。手のひらのように水面に差し出されたその葉のうえに、朝のひかりが射していて、どこかから泳いできた大きな鯉がチラリとこちらを一瞥し、悠然とその葉の下を通りぬけていった。

蓮と鯉には、「悠久」とか「泰然」とかという言葉を思わせるような悠々とした何かがあって、あわただしい日々に追われた煩悩まみれの自分のような人間を諭すために彼らがその場に現れているような、なんだかそんな感じもした。

そんなふうにして葉っぱのうえにたまった枯れ跡をぼーっと眺めているうちに、その鯉は「なーんだ何も持っていないのか」という顔をして赤い身体をのんびりくねらせながら、見えないところへと去っていった。深い水面のうえに小さなさざ波が生まれて、その波がすーっと音もなくどこかに流れていく。やわらかい光が冷たい空気の隙間から静かに静かに降っていた。

ひかりの跡

秋になると、ある種の樹木の葉っぱたちは、自分の身を紫外線からガードするために自分自身の色を変えるのだと言われているらしい。いわば自分の肌を光から守るための日焼け止めのようなものとして、紅葉というものがあるのではないかと、いつかの秋に山のひとがボソリと言っているのを隣でぼんやりと聞いていたことがあった。

もしそうだとするならば、逆にいうと紅葉は、光の痕跡のようなものとも言えるのかもしれない。ひかりが自分自身の姿を葉の色に変えて地上に刻みつけたものが、紅葉なのだと言えるのかもしれない。
もしも光になって空の上から地上を見れたとしたら、地表を覆うたくさんの葉っぱの色はいつかの自分の痕跡を写したもののようにも見えるんじゃないだろうか。そんなことを少し考えてみたことがある。

紅葉の季節は短い。光は自分自身の痕跡を「色」として葉っぱの上にはっきりと刻みつけたかと思うと、もう次の瞬間にはその痕跡がハラハラと儚く空中を舞って地面に落ちていく姿を目の当たりにすることになるのだろうと思う。

その光の痕跡を動物たちが踏みしめて、色鮮やかな地面ができる。その地面がゆるやかに連なると、一本の道になる。その道の上をどこかの誰かがゆっくりと踏みしめながら歩いていく。地面に落ちた光の痕跡はどんどんと古びた色になり、土の色に、あるいは土そのものに近づいていく。
それからまたそのうえに落ち葉が積もって、動物たちがそれを踏む。そうしていつしか空から雪が降ってきて、光の跡は真っ白な雪の下で眠りながら春を待つ。

水と道

「水は争わずにただ流れ、人が見放した場所を流れていく。だから水は道に似ている。」

いま読んでいる本にそんな言葉があった。老子の言葉なのだとか。
囂々と速く流れていく水の音には諦念にも似たさっぱりとした清々しさがあり、ゆるやかに流されていく水の音にはかすかな物悲しさのようなものが貼りついていることもある。それは水が、見放された場所をくだっていくからなのかもしれない。「だから水は道に似ている。」

稜線の夕陽

だいぶ前、はじめて訪れた遠くの町の、ひんやりとした空気につつまれたある日の夕景。

色のない森

山に棲む生き物たちは、その場所の意味や価値をどのくらい色によって判断しているんだろう。
いつだったか、製図板のうえで鉛色の線をひく手を休めてぼんやりと山のことを思っていた時、そんなことを考えたことがあった。

山や森を歩く時、ひとはどうしてもその全体や細部がつくりだす色に惹かれ、色に引きずられてそれを眺めてしまう。暗い蒼につつまれた霧の森。深い緑に覆われた晩夏の巻き道。明るい暖色に満ちた沢沿いの紅葉。その場所を思い起こそうとする時、記憶の中の森はいつもなんらかの色によってつつまれている。

そんなふうにして歩いた山の写真から、試しに色を消してみる。すると一瞬のうちに写真の上にそれまでとは全く違う容貌が浮かびあがってくる。そのモノトーンの写真と、記憶の中のカラフルな森の像との間に生じる小さくはないズレは、普段自分がいかに色に引きずられてモノを眺めているのかをあらためて浮き彫りにする。そのズレはたとえば単色の図面と、それによってつくられた建物との間のズレに、どこか少しだけ似ているような気もする。

その季節のその場所に固有の色に彩どられた森にしか浮かびあがらない美しさがあるように、単色に変換された森にしか浮かびあがってこないものもある。それは視覚的なものというよりは、どこか触覚的な世界、手にふれるものの感触と耳を渡っていく音とが生みだす触覚的なものであるような感じがする。色が消されたことと引き換えに、その背後に見えてくる豊かな何かがある。でも、それを言葉で説明することは、今の自分にはまだまだ難しい。

画面にうつる色のない森で、何かがさざめく。
獣道が木々の間を縫ってどこかに続いていく。

自分のような人間には獣たちの歩いた細々とした道の跡をどこまでも追いかけていくことは出来ないけれど、その道の行方を眺めながら、彼らがきっと自らの足裏や耳の奥で感じとっているのであろう山の姿を、静かに想像してみる。目を閉じて、視覚以外の感覚をそばだてながら、その山の手触りのようなものを想像してみる。その手触りはどんなだろうか。その山に色はあるんだろうか。

樹皮のざわめき

冬になって葉の落ちた森を歩くと、木の樹皮の文様の、白っぽいところと黒っぽいとことろ、滑らかなところとザラザラとしたところの陰影が視界のなかで重なりあって、不思議なざわめきを感じることがある。

風がどこか遠くのほうから見えない音を運んでくるように、ざわざわとした確かな手触りを持った樹木の群れの感触がこちらにざーっと飛びこんできて、自分の意識の内側の何かを小さくゆする。

木の実

木の実のことを「このみ」と呼んでいるひとを見ると、懐かしさにも似たなんともいえない感覚が、すーっと心に浮かんでくる。その言葉の音色には、ひとが実をたべる生き物であることを思い起こさせるような、原初的でふくよかな響きがつまっている。ふかふかになった冬の落ち葉をがさごそと踏むものの音が、どこか遠くのほうから小さく聞こえてくる。