花の跡

咲いているときよりも、あざやかに見えたもの。

螺旋

川沿いの公園に、ひっそりと誰もいない空き地のような場所があって、去年のあたたかい時期には時たまそこに歩いていっては、いつもより広い空を見上げてみたりしていた。

その公園の空き地のあたりにはよく、まるでテントを担いで山に登るかのような大きな荷物を背負ったひとがいて、ある秋の朝、そのひとがその空き地のような場所を横切って、フェンスに沿って土のスロープをのぼり、どこかむこうのほうへと歩いていくのが見えた。
土のスロープをあがった先に、その空き地のフェンスのむこうに出ることのできる道があることをその時の自分は知らなくて、自分の近くを通りすぎて、うつむき加減でゆるやかなスロープをのぼっていったその人の姿が、どういうわけだかその後もしばらく記憶に残った。

この前のある日。その空き地の前を通りかかると、土のスロープのまわりに太陽の光が落ちていて、その光が時計回りの螺旋を描いて、スロープのうえの、フェンスに沿った道の先のほうへと続いているのが見えた。大きな荷物のひとの姿は見あたらず、あたりでは鳥たちが地面に落ちた実を静かについばんでいた。なんていうことはない螺旋の形が、地面のうえに何かの軌跡を描いているようで、美しかった。

小さな世界

若い頃に衝撃をうけたひとつの短い文章が、きのうたまたま机の上に出してあった本の表紙に小さく印刷されていて、その文があまりにもいまの自分にすーっと響いてきて、驚いた。若い頃の自分は、この文のいったいどこに衝撃を受けたんだろう。。今だからこそ実感をもって読むことのできる、強くて芯のある低い言葉だった。

それからそのひとが、自分のつくっているものや仕事は誰かの小さな世界を守るためのものだ、というようなことを別のところでハッキリと書いているのを目にして、あらためてもう一度、ハッとした。その言葉はそのひとが自分の手でつくった小さな家のことを、まるごと一言であらわしているような、研ぎ澄まされたやわらかい言葉だなあと思った。

そのひとにはあるとき一度だけ偶然にお目にかかったことがあって、その日、そのひとが座っていた小さな家の中の巣のような暗がりに、いまの自分の意識をもう一度集中させて、記憶のなかのそれを手探りで探ってみたりした。木の梯子をのぼった先にはたしか、誰もいない静かな屋根裏の部屋があった。

とりかえしのつかなさ

ふつうに暮らしていると、だいたいのことはいつも決まってとりかえしがつかない。

観葉植物を枯らしてしまったこと。山を歩いて何かを踏みつけてしまったこと。ラーメンに胡椒をふりすぎてしまったこと。珈琲をこぼしてしまったこと。大事な友人の展示を見逃してしまったこと。歯が欠けてしまったこと。誰かが嫌だなあと感じるようなことを言ってしまったこと。

小さなことであれ、そうでないことであれ、水のようにすーっと流れ去っていく時間のうえでは、だいたいのことはおおむね、とりかえしがつかない。

ひとは誰だって日々とりかえしがつかないことをしているのだと実感するからこそ、何かをしようとする時にそれが大事なことであればあるほど、そのことにしっかりと向き合って、そのことに集中して、それから自分が「これだ」と思う何かを慎重に責任をもって行動に移すのではないか。

それは本当にふつうのこと、毎日の暮らしの場でふとした瞬間に感じるふつうのことで、暮らしの場所から仕事場に行って机にむかって自分の手で図面を描くときも、そんなふうな普段の感覚と同じ感覚の中で図面を描いていたいなあという気がする。

紙のうえに溢れた錯綜する鉛筆の線をひとつでも消すことは、容易なことではない。ひとつの線を消しゴムで消すと、ほかの線も消えてしまう。生半可な気持ちで紙の上に描いてしまった線は、本当にとりかえしがつかない。だから1本の線を大切にする。大切に引く。その1本の小さな線のことをしっかりと考えて、そのことに意識を集中させて、それから机のうえに三角定規を添えて一気に手を動かす。そのことの中に、小さくはない手ごたえがある。

ふつうに毎日を暮らしていることと何かをつくっていくことが、別々の地平のうえではなく、同じ地平のうえで当たり前のように繋がっていたら良いのになと思う。

一月の水

冬の朝は、コップの水を透過してくる光がだんだんと強まったり弱まったり、あるいは少しずつその模様やかたちを移ろわせていくさまを、何も考えず、ただ漫然と眺めているうちに、ふと気づくと思わぬ時間が経っている。。コップの水はなぜだかよく分からないけれど、残された時間のようなものを想起させるところがあって、不思議で、それからどことなく懐かしい。

朝の枝

机の前にすわって、朝のひかりを感じる。窓の外では、何年も前からゆっくりと育ってきたユキヤナギが、自分と同じように暖かい朝日をあびて佇んでいる。スズメの声、羽の音、少しの風。

最初はおぼろげに見えているだけだったユキヤナギの枝が、こちらが珈琲を飲み終える頃にはぼんやりと、それから次第にくっきりと、ざらついたガラスのうえに浮かんでくる。その様子を茫々とながめているうちに、今日もいつもの一日がいつの間にか、ひっそりとはじまっていく。

あの枝のような線を描けたら、なにかが生きている鼓動をかすかにでも伝えることのできる線を描けたら、きっと素晴らしいだろうなあと思った。

ある尾根の木

深い霧が出ていた日。山の上のひらけた場所で、枯れたまま立ち尽くしている木があって、その立ち枯れた木の枝のかたち、その手のさしだし方に思わず目がいった。そぎ落とされ、骨格だけになってもなお、何かが生きた鼓動をしっかりと記録しながら立っているもの。内部がすかすかに空疎なものとなってもなお、その場所のうえを通りすぎていったものの記憶をぼんやりと見つめているもの。そんなものが、ほかにいくつあるだろう。

午後のこと

午後。部屋にある机の前にすわって、窓の外を見る。

南の窓から見える小さな公園には、葉っぱを落とした1本の木が大きく枝をひろげて立っていて、その木の丸い樹形の中から、ひとつの枝がひょろりと空につきだしている。ちょっとだけ、のびすぎてしまったのかなと思う。あの枝がのびたいように、空を見上げてそのまま自由にのびていってくれたら良いなと思う。

振り返ればいつだって、近くて遠いその木の姿を目の端に見据えながら暮らしてきたような感じがする。新緑の葉っぱが風に揺れる澄んだ音色が、毎朝のように部屋の中を通り抜けていた去年の春のことを、少しだけ思いだす。

つき出た枝の脇のあたりで動いていた小さな影が、ふいに目の前のベランダに飛んできて、窓の外の手摺にとまる。このところ毎日やってくるようになった1羽のヒヨドリが、いつものようにポサポサに頭の毛を逆立てた寝起きのような顔のまま、ランランとした丸い目で窓の内側を覗きこんでいる。

西の窓から入ってくる低い日射しが、机の上の飲みかけの珈琲に射してきて、その隣にある煉瓦色の小さなCDコンポを照らしはじめる。濃い黄色を帯びた光が重たいベースと透明なトランペットの音色をくるみながら、深いような乾いたような不思議なこだまを部屋の中に響かせて、その音と光の隙間からまどろんだ午睡の気配のようなものがゆっくりと溢れだす。

「ヒーョ!」

突然、甲高い声でヒヨドリが鳴いて、それからまたいつものように公園の木の中に翼をひろげて帰っていく。ふと顔をあげると、大きな木がだんだんと暗い影そのものになって、少しオレンジがかった空を背にくっきりと黒く自分のかたちを浮かびあがらせているところが見える。窓の外の夕陽が、今日一日の仕事を終えて急ぎ足で西のビルのむこうに消えていく。

変わらずにいつもそこに在るということは、何かから遅れていることや何かよりも劣っていることを意味しない。変わらないということは、強さなのだと思う。