「自分はただこの場所に、このようにして在れたら、それでいい。」

見え方とか受けとめられ方とか聞こえ方とか、そんなようなものの一切から遠く離れた素朴な場所で、ただ在り方だけを強く祈りながらじっと動かずに立っている。見上げると、そんな木がそこにある。

屋根

すぐれた屋根は、その土地が背中にかかえた小さな山々の稜線に、どこかとてもよく似ている。

いつも通る農園の、パイプで組まれた簡素な小屋の前にさしかかった時、ちょうど信号が赤に変わった。小屋の中を見ると、トマトやピーマンなんかの夏野菜が色とりどりに売られていたカゴの中身は、農園のひとたちが手作りしたたくあんと、それから白菜漬けだけになっている。

すっかり冬景色になった農園の前を発車して自転車を漕ぎはじめると、大きめの通りを1本渡ったあたりで、頭にかぶったニット帽に小さな何かがコンコンと打ちつけてくるのに気がついた。まだむこうの空は明るいのに。思わず天を仰ぐと、氷の粒がコツコツとひたいにぶつかりながら降ってくるのが目に入った。

でも、ちょっとくらいなら。呑気にそう思ってのんびり自転車を漕いでいくと、コンコンという音はみるみるうちにジャージャーという大きな音へと変わって、たくさんの氷の粒が視界をさえぎりはじめる。目の上のあたりに打ちつける小さな粒たちがなかなかに痛い。なにもこんなに寒い日に、氷まで降ってこなくても良いだろうに。。

今日の雲は南から北へと流れていたはずだから、このまま北へとまっすぐに走っていけばなんとかかんとか逃げ切れるかもしれない。古い商店街の脇をのびていく平坦な道を一目散に自転車を漕いで、北の小屋をめざした。

スズメ

しばらくのあいだベランダに生えたヒエやらアワやらを早朝に必死に脱穀しに来ていたスズメたちも、冬至が近づくにつれてすっかり寝坊助さんになり、人間のほうが早く目を覚ますようになってきた。

この前の朝、遠い国のあるベース弾きのひとが亡くなって、彼の遺した半世紀ほども前の音楽たちを何度も再生した。そのなかのひとつに、あるグループのバックで彼がベースを弾いたものがあって、それは一般的には決して有名だったり評価されたりしたものではないのだけど、自分はどうにもその頃の彼らの音楽のうしろで低く鳴るベースとドラムの音が大好きで、地面の上から空を見上げて踊りだすようなその音を、やっぱりその朝も幾度かくりかえし聞いていた。

窓の外にはいつものように寝坊したスズメがやってきて、庇のうえにとまってガサゴソと何かをやっている。草のあたりにはいないから、どうやら今日は脱穀をしに来たわけではないらしい。

「チュンッ。チュンッ。」

しばらく聞き耳をたてていると、寝坊助の彼はスピーカーの中のベースの音にぴったりとリズムを合わせるかのようにして短く何度か鳴いた。そうしてそれから元気に羽ばたいて、よく晴れた冬の空をまた次のどこかへ飛んでいった。

港町の食堂

はじめて入った古い小さな食堂で中華そばを注文して、丸椅子のうえから何の気なしに目の前を見あげると、壁の上のほうにA4くらいのサイズの紙が木枠の額に入れられて飾ってあるのが目に留まった。

その紙には地元の小学生が手書きしたらしいいくつかの言葉が、さっぱりとした綺麗な文字で描かれていて、この商店街のことをもっとみんなに知ってもらいたいこと、そのために商店街の古い歴史を調べていること、そのためのポスターをつくったのでそれをお店に貼ってほしいことなどが、丁寧な言葉づかいでしたためられていた。その額のすぐ下のところにはもうひとつ小さな紙が貼られていて、この食堂のすぐ前にある細い細い路地の来歴のようなことが、これまた小学生の手による丁寧な文字で書かれていた。

この路地のむこうには、むかし海のなかに鳥居が立っていて、路地に佇むとその鳥居が水面に浮かんでいるように見えたことから、この路地にはこれこれの名前がついたのだそうです。

概ねそんなようなことが書かれた小さな紙とその上の額を交互に見上げているうちに、アツアツの中華そばをお母さんが運んできてくれて、ふたつの紙の手前にもくもくと香ばしい湯気がたちのぼった。とびきりに美味しかったその食堂の中華そばの味わいは、壁に掛けられた木枠の額とそこに丁寧に手書きされた小学生の文字の感じにも似た素朴さがあって、その余韻を感じながらガラガラと引戸をあけて店の外にでた。

店の前の路地の先には新しい建物が建ちならび、その建物たちに遮られて路地の上から水面をのぞむことはもう出来なくなってしまっていたけれど、そのむこうにゆったりと横たわる海の上のどこかには、きっと今でも古びた鳥居がちょこんと簡素な佇まいで立っているんじゃないかなという気がした。

町のかたち

最近はじめて訪れた町で、それぞれの町の夕日に出くわすことが何度かあった。

山にかこまれた盆地にある平らな町、斜面にくっつくようにして立っている小さな町、やわらかな海をかかえた港の町。それぞれの町にはそれぞれに固有のかたちのようなものがあって、そうしたかたちをほんの束の間、夕日のおちていく前のひとときが空のむこうにくっきりと浮かびあがらせているようでもあった。

昼の空気に霞んでいた遠くの島や、雲のむこうにかくれていた向こうの山。あるいはそのまたむこうに横たわっていたおだやかな山脈。

きっとその町のひとたちはそうしたかたちに囲まれて、ずーっとむかしからその場所で暮らしてきたのだろう。真昼の時間には見えてこなかったそんなかたちのいくつかが、あっと息をのむ間もなく冷えた空気のむこうにふっと浮かんで、それから真っ暗な夜がしんしんと歩み寄ってきて、深い闇がそうしたかたちのひとつひとつをすっぽりとくまなく覆い隠していく。闇にかくされてしまう前のかたちを、ひとはなんとか自分の心にとどめようとする。

はじめて訪れた町で夕日を見ることができると、だからほんの少しだけ、その町のかくされた姿のようなものに親しむことが出来たような、なんだかそんな気分になることが出来るわけで、きっとそれは新参者のいだく幻影ではあるけれど、それはそれでひとつの町とひとりのひとの関係のあり方なのではないかと思ったりもする。

ひとが古いものを壊し、新しい建物をたて、山を削り、海を埋め立てても、それでもなおたいして変わることのないその町のかたちがあるとしたら、そのかたちに出会うことが叶うのは、あざやかな朝でも明るい真昼でもなく、暗い夜の訪れる前のほんのわずかな数分の間であったりもするのかもしれない。

余白

「眺望が良い」ということの良さが自分なりに理解できるようになったのは比較的最近のことで、それまでは山や森はその内部に入りこんでいけるからこそ素晴らしいのだと感じていた。そんなふうにしてふらふらと内側を歩きまわることばかりを楽しんでいて、あれはいつ頃だっただろうか。あるとき、それほど都会から離れていない場所にある小さな山に登った時に、ふいに冬枯れの林のむこうに東京の街並みが霞んでみえたことがあった。

その山はたいして高い山ではなかったから、そこから見える街並みは、どこか高いところからそれを見下ろしているという感じはなく、その街と自分との間にたっぷりと大きな余白があって、その余白をはさんで遠くから水平に街を眺めている、という感じがあった。高さの違いがすくないぶん、距離の感覚が際立っていて、むこうの街と自分との間を低い光に真っ白く照らされた冬枯れの枝たちが一面におおいつくしていた。

そこから見えたむこうの街では、たぶんたくさんの誰かが今日もせわしなく仕事に追われたり、なにかを考え込んでみたり、あるいは自己を主張し合ったりしているのだろうと思われたのだけど、ついさっきまでその真っ只中に居た自分自身と、その街との間にある十分な余白、たっぷりとひらけた距離が、なにかそういった日々の重々しいあれこれを大らかにすいこんで、ふーっと軽い空気に変えて息をはきだしてくれているような、なんだかそんな明るい感じをその時の自分は覚えたのだった。

山や森のかたちをした大きな余白がふーっとゆっくり呼吸をするたびに、さっきまで肩に入っていた無駄な力がゆるゆるとほぐれて、ふんわりと軽やかな雰囲気に満たされていく。その息づかいをうっすらと身体に感じているうちに、むこうの街にいるひとたちのひとりひとりにまっさらな気持ちで素朴にむきあうことが出来るようにも思われて、なるほど眺望というものはつまりそんなようなわけで素晴らしいものなのかと、遅ればせながらその時はじめて気がつくことになったのだった。