擁壁と階段

たぶんこれまでに誰の気にもとめられてこなかったのではないかというような、ありふれた地味なものたちに、流れていく光がひっそりと、でも確かな存在感を与えている。その瞬間を見つけたときは、ひとりしずかにうれしい。

風が吹く日

「風がどうと吹いてぶなの葉がチラチラ光るときなどは
虔十はもううれしくてうれしくてひとりでに笑へて仕方ないのを、
無理やり大きく口をあき、はあはあ息だけついてごまかしながら
いつまでもいつまでもそのぶなの木を見上げて立ってゐるのでした。」

宮沢賢治の短編『虔十公園林』の中の、好きな一節。
今日みたいに良く晴れて風が強い日には、森は良いだろうなあ、と机の前でぼんやり思う。

掲載のお知らせ

発売中の雑誌『住宅建築』4月号「特集:骨格とディテール」に、「勝浦の家」を10ページにわたって掲載していただいています。

撮影は、写真家の傍島利浩さん。人や時間の痕跡がはっきりと写しだされた手触りのある素晴らしい写真を撮っていただきました。施工をしてくださった木組の皆さんの丁寧で豪快な手仕事の跡も、写真の中に是非見つけてください。

特集の冒頭は、故・高須賀晋さん設計の「茂原の家Ⅲ」。
20代の頃、高須賀さんの建築と言葉に心を鷲掴みにされて、古本屋さんに通いつめて作品集を見つけ、そこに載っていた図面を無我夢中でトレースしたのが、自分が手書き図面を描きはじめたきっかけです。

「原寸図を描くということは、図面のうえで実際の仕事をすること、工事をすることなのだ。」

そんな高須賀さんの言葉を心のなかで繰り返しつつ、図面をお渡しする大工さんや職人さんのそれぞれの顔をはっきりと思い浮かべながら、コツコツと時間をかけて描いた手書きの図面たちも、6枚ほど掲載していただいています。

今回あたらしく書かせていただいた文章には、自分に木のすばらしさを教えてくれた、すべての森、すべてのひと、すべての大工さんへの、ありったけの思いをこめてみたつもりです。

本屋さんなどで見かけた際には、是非ご覧いただけたら嬉しいです。

地味な山

自分はどうやら、地味な山が好きだ。
なかでも、葉っぱが落ちてあたり一面が土色に染まる冬の季節は、すごくいい。

夏の空、素晴しい眺望、色とりどりの花、山頂の雲海。
そんな劇的な風景も勿論素晴らしいし、心から感動する。

でも、鮮やかなもの、劇的なものに期待をしながら山を歩いている時の自分は、
道の脇に立つ素朴な枯れ枝に射す光や、
ぬかるんだ土のなかに潜む小さな生き物や、
木の幹に刻まれた風や雨の痕跡を、きっと見過ごしてしまっているに違いない。

同じような地味な道を繰り返し繰り返し黙々と歩いていると、
山のなかの小さな差異、小さな命、小さな陰影に、
いつもよりすこしだけ敏感になれるような気がする。

ひとりで歩くのは、地味な道でいい。

朝靄

小さな山の朝。
たちのぼる空気。

境界

京都、無鄰菴の庭。

個人的にとても好きで、ここ数年、関西方面に行く機会があるときは、
ほぼ必ず訪ねているのですが、毎回新しい、小さな発見があります。

去年の夏、訪れたときに気づいたのは、庭の境界の美しさ。
ひとの手で丁寧に手入れされた、小石の道と地被類の海のグラデーションに、
なんとも言えない清らかさを感じました。

庭をはき清める、という言葉の意味を改めて考えさせられると共に、
その淡々とした繰り返しの行為の中に潜んでいるのであろう沈黙に満ちた静かな時間について
庭の片隅でおぼろげな想像をめぐらせました。

去年の年末。小雨まじりの日。
列車の待ち時間に山間の町を歩いた時。

ぴゅうぴゅうと冷たい風のふく小さな橋に差し掛かったところで、
蒼みがかった暗い川のむこうに、突然、真っ白に輝く稜線が見えた。