だれもいない

山や森の奥で、古い集落の奥で、だれもいない場所を探すのはたやすい。
そうした場所への経路が絶たれたとき、だれもいない寡黙な場所を、どのようなところに見いだすか。どのようなものの中に見いだすか。

遠くのどこかを憧れるよりも、いま自分の目の前にある小さな風景のなかに入りこんで、そのありふれた風景のなかに、あるいはその向こう側に、そんな場所を見つけられたら良いのになあと思う。しかしそれは、めちゃくちゃむずかしい。。。

ありふれた小さなものの中にある静かなところ。脳みその中のひとりだけの宇宙。
久しぶりに、SFが読みたくなってきた。

ことばの角度

どんな言葉を言ったかということよりも、どんな角度からその言葉を発したか、どんなところに自分の重心を置いてその言葉を言ったか、がまずはなにより重要なんじゃないか。

どんなところから、どんなところを見据えて、しゃべったか。書いたか。考えたか。言葉の角度。それを言うひとの重心の低さ。見上げるものの高さ。

ものを言う角度には、そのひとの本当があらわれるときがあって、その言葉の内容よりもその言葉の角度のほうに、強く心を惹きつけられることがある。

道の写真

たとえば、ただの道を写した写真があるとして、
それを写したひとが、それまで歩いてきた道を振りかえって撮った写真なのか、これから歩いていく先の道を撮ったものなのかが、分かる写真が好きだな、と思う。

その道がそれを写したひとにとって、どんな道なのかが分かる写真がいい。それから、その道がどんなふうに歩かれてきた道なのかが分かる写真がいい。

それは写真だけではなく、表現にまつわる全てのことに当てはまることに違いない。などと思ったりもするのだけれど、それをどのように言いあらわして人に伝えたらよいのかは、相も変わらずさっぱり分からないままである。。

山の桜

今年はいろいろな場所にヤマザクラを訪ねにいこうと思っていたのだけれど、それは叶わぬまま、いつの間にやらすっかり春の時間は過ぎ去って、季節は早くも梅雨。
冬に行った小さな山々で「このあたりの桜が咲くところを春になったらまた見に来よう」とひとり密かに思っていたあの桜たちは、急斜面の途中や尾根道の傍らで、いったいどんな花を咲かせたのだろう。。
平地とは違う自然環境の中で、風雨の痕跡をその身に映しながらじっと立ち続ける樹木がほんの一時咲かせる花には、やっぱり心惹かれるものがある。

プミラ

植物が何かを感じて、それを姿やかたちに反映させる瞬間には、「かたち」が生まれる直前の生き生きとしたなにかが宿っているような感じがする。

春を感じて芽吹きをはじめるとき、風を感じてかたちを変えるとき、影を見つけて動きはじめるとき。
そこには「かたち」のはじまりにある素朴な感情のようなものが、確かな意思を持ってうごめいている瞬間があるような気がして、なんだか全くよくわからないまま、その瞬間が通りすぎてしまう前に、その場面をとにかくまずは記録しておかねばと思うことがたまにある。

んー、でも、言葉にするとやっぱり全然よく分からない。。

写真は今年の春先に枯れてしまった机の上のプミラの、冬頃のすがた。
地面を感じて、小さな力を振りしぼりグッと上を向きはじめたところ。

ひとが「かたち」をつくろうとした時にどうしたって入りこんでしまう「自意識」とか「恣意性」のようなものが、さーーっと消え失せたところで生まれる「かたち」に、憧れる。

土に座って

編集者・平良敬一さんが亡くなられたのを知った。
もう1か月ほど前のことだという。

平良さんが編集された本にはじめて触れたのは、10代の終わりの頃。
ちょうどある古びた集落の跡を辿るためにいろいろな場所を訪ねていた頃のことで、東京駅からの高速バスを待っている間に立ち寄った八重洲ブックセンターで、一冊の本を買ったのが最初だった。

『日本の集落』というタイトルがついたその本は、高須賀晋さんの文章と畑亮夫さんの写真によって構成されたもので、自分がその時買ったのは第3巻、九州や沖縄の古い集落についてのものだった。

その本を買った日の八重洲ブックセンターの中の光景、空気感、それからその本の置かれていた棚の雰囲気。そんなものを今でもはっきりと思いだすことが出来るくらい、その時に買った本の衝撃は確かなものだったし、その衝撃はそのあと長いあいだ自分の中で持続することとなった。

その本は今でも『日本の集落』の第1巻や第2巻、あるいは同じく平良さんが編集された『高須賀晋住宅作品集』や『住宅建築』誌の別冊などのたくさんの本と一緒に、事務所の机の一番良い場所にきちんと並べて置いてある。

なんというか、物事というのはどうにも複雑なものだから、あまりに単純化して言うことは難しいけれど、しかし、たぶんその本に出会うことがなければ、その後、九州や沖縄の離島を訪ねることはなかっただろうし、各駅停車に乗って各地の古い場所をふらふらとひとりで旅するようなこともなかったかもしれないなあ、といま思う。

少なくとも、いま自分が木の建築に惹かれたり、山や森を歩いたり、津南町を訪ねたり、手書きで図面を描いたりすることの要因のひとつにその本があることは、おそらく疑いようがない。

その本の、押し黙った重心の低い言葉たちや、ギラリと鈍い光を放つモノクロ写真たちの中には、平良さんがいろいろなところで書かれていた「場所」とか「共同体」というものの現実と、その厳しさや確かさが実にうまく表現されていて、そのページのむこうからはどこか「地べた」に座りこんで語りあう人たちの声のようなものまでもが、かすかに聞こえてくるかのようだった。

土に座って、それからふと空をあおいでしまうような瞬間というのは、きっと誰にでもあって、その時に自分の身体を最も低いところで支えている「地面」を、土にまみれた「場所」そのものを、確かな手ごたえを持って感じとることが出来るかどうか。

そのことを時に自分自身に問いかけながら、これからも平良さんの遺された本たちを低く、静かに、読み継いでいけたらと思います。