小さな光

事務所までのいつもの道。雑草たちの暗がりに咲いていた小さな光が綺麗で、なんだか素朴で大切な一瞬のように思えた。のだけれども急いでいたので写真はピンぼけ。。。

ピーチュルチーピーチュルチー。開け放った窓の外に、今日はめずらしくメジロの明るいさえずりがよく響く。昼過ぎに一度鳴きやんだその声が、夕方になって先ほどからまた頻繁に聞こえてくるようになった。
繰り返し繰り返し、透き通った声で鳴いている。彼(さえずるのは雄らしいので)にとって、今日という日は特別な日か何かなのだろうか。

ピーチュルチーピーチュルチー。

メジロが小さな身体に精一杯の力をこめて、さえずりの声を一生懸命に振り絞る姿がふと頭に思い浮かんできて、机に向かいながら心の底でそっと声援を送りたいような気持ちになった。

机の上の森

待っていたものがついに手元に届いた。
いま、行きたくても行けない、歩きたくても歩けない、ある町と森の地形図たち。

このような状況のなか、その場所に行くことが叶わないならば、自分は、机の上の道を辿り、全ての等高線を丁寧になぞって、地図の上の町と森を自分の手でゆっくりと歩いてみようと思いたちました。

まずはどこから歩きはじめよう。

やっぱり最初はあの工房でゆっくり珈琲を飲みたいな。その後は食堂のレバニラでお腹を満たしたら、道を南に折れ、町を離れ、川沿いの林道をぬけて、あの森を目指そうか。

今日から仕事と暮らしの合間に少しずつ、いつものシャープペンシルとトレーシングペーパーだけを持ち物に、机の上でひとり静かに歩きはじめてみたいと思います。

行けぬなら 描いてしまえ 津南町

夏の午睡

遠方の古い友人のお店。
結局、去年の夏に行ったのが最後の訪問になってしまった。

自然の色に溢れた匂いたつような静かな料理とそれを枠づけていた簡素な四角い木の器、カッコ良かったなあ。あの箱のような器に美味しい料理が丁寧にそっと配置されて目の前にそーっと運ばれてくるのを見ていると、昔ある厨房で料理の盛りつけをしていた時に言われた「器は庭だと思え」という言葉を思いだしたりもしました。

お店での時間は、なんというか、夏の日の午睡のようなおぼろげで心地よい、美しいまどろみの時間でした。(ただただ毎回昼間からお酒に酔っ払っていただけかもしれないけれども。。。)きっと記憶に残っていくであろう静かな時間と最高の空間を、ありがとうございました。

霧のなか

仕事の手を休めて、珈琲をすすってひと息つき、ふと古い記憶と戯れていたりなどする真昼どきに、ぼやけた記憶の中でいつも深い霧につつまれているような場所がいくつかある。

ような気がする。分からない。気のせいかもしれない。記憶と霧は、どこかなんとなく似ている。
写真は真夏の苗場山。ぼんやりと溶けた淡い霧のなかをすいすいとトンボが飛んでいた。

幻想

いま、森はどんなだろう。
ひとの気配が遠のいた夜の事務所。車の音も遠ざかり、時計の針の動く音がクリアに聞こえてくるような時間になると、ついつい手がとまって、机の上にひとりぼんやりとした幻想をひろげてしまいそうになる。

そこじゃない

「でも、生きる目的はそこじゃない。」
今日、なにげなく目に留まった言葉。そのあとずっと頭の隅から離れない。
断片でしかないけれど、ひとの背中を力強く押すような、澄んだ言葉だなと思った。

背中

東京の小さな丘。3月。薄い雲が空を流れていた夕方。
丘の頂上でじっと遠くを見つめていた、おじさんの背中。

むこうの山

むこうの山にむかって「ヤッホー」と大声を張り上げてみるのは、一度は誰もがやってみる定番なのかもしれないが、自分にはなんだかそれができない。第一、恥ずかしい。。「ヤッホー」をするひとを見ると、羨望めいた眼差しでただぼんやりと眺めてしまう。

そのかわり、遠く離れたむこうの山を見た時にいつもなんとなく考えるのは、その山のなかを歩いているのであろう見知らぬ誰かの心が、しーんとした豊かな静寂と平穏につつまれていますように、というなんだか訳の分からない小さな願いのようなものだったりもする。

それは本当に自分勝手な空想にすぎないのだけど、できればむこうの山を歩くそのひとが森や山と向きあっている静かな時間(とは限らないはずだけれど)を邪魔しないようにしたい。その見知らぬ誰かには「ヤッホー」の声ではなくて山の音を聞いていてほしい。だから、ひとりの山では出来るだけ静かに歩くようになった。

山での下りは猫のように歩け、などという何度か聞いた言葉を頭に浮かべながら、出来る限り頑張って自分もそろりそろりと音の出ないような足取りで歩いてみたりする(これが結構難しい。)。足のつま先とそれから耳に、意識を集中させながら歩いてみる。ベンチに座ってむこうの山を眺めているひとがいたら、自分は休まず静かに横を通り過ぎる。「ヤッホー」は言わない。

それを何のためにやっているのかいつも途中で分からなくなるけれど、誰に求められているわけでもないその小さな謎めいたこだわりを、ひっそりとひとり続けていけたらよい。

ひととひとの距離が遠く離れれば離れるほど、たとえそのひとが見知らぬひとだったとしても、遠く隔たったそのひとの具体的な姿や顔を思い浮かべ、そのひとに対する自分なりの想像力と敬意を心のなかに雲のように静かに浮かべてみることを、忘れないようにしたいなあ、と思う。

帰り道。ほとんど揺らぎもない桜の水面の横を抜ける。
静まり返った街と、一目散に家路を急ぐ人たち。

ひとの気配のない個人経営の小さなお店。毎日書きかえられるいつもと変わらぬ手描きの黒板。綺麗に掃除されたガラスの奥の誰もいないカウンターの灯り。言葉が出ない。

今朝、川沿いの道でジュウイチによく似た鳴き声を聞いた。何度も聞いた。本当にいるのだろうか。空を仰いでも姿は見えずじまいだったけれど、もしこんな東京に、ジュウイチがやって来ているのだとしたら、ありがとうと言いたいような気がする。

シジュウカラ

昨日。どんよりとした曇り空の合間に一瞬だけ、窓の外の桜に明るい光が落ちた瞬間があって、なんだか素晴らしかった。あわててカメラを手にとったから、1枚目はピンボケ、2枚目の時にはもう既に元の曇り空に戻っていた。

「ツピーツピーツピー」。いつもよりひと気のない街をルンルンと駆けまわるかのように、窓の外でシジュウカラが何度も鳴いた。

陰影

「勝浦の家」を掲載していただいた『住宅建築』誌(No.480号)の誌面より、写真家・傍島利浩さんの、まるでトム・ヴァ―ラインのギターのような深い陰影が刻まれた写真。

傍島さんに今回撮影していただいた写真たちのその陰影を、今、窓の外の雨音を聞きながら改めて眺めていて、なんだか身体の中にグッと鋭い力がみなぎりました。

本屋さんに行くことさえままならないような重たい雰囲気につつまれた毎日ではありますが、でも、自分としては、暗い閉塞感にとざされたこんな日々にこそ見て頂きたい写真だと、あらためて強く感じました。

隔月発売の雑誌のため、2月半ばに発売されたこの号はもうまもなく店頭などから消えていくだろうと思います。このような時ですが、もし宜しければ、ご覧いただけたら本当に嬉しいです。