コア

いつもよりセミの声が大きいから、イヤフォンの中の些細な音はそれらにかき消され、重いウッドベースの音と甲高いサックスの音がミーンミーンと繰り返される通奏低音をつんざいて、唐突に目の前をかすめる。

たまたまメラミンコアという素材のことを考えながら街を歩いていたら、ふつうの扉に「コア」という2文字がくっきりと黒い文字で書かれた表札を見かけて可笑しくなった。「論理の核としての思想のきらめく稜線だけを取り出してみせる。」大昔に読んだ芥川の言葉がからからと音をたてて頭の中を転がっていく。今日の小屋にはヤモリはいなかった。

既にそこにいるもの

トントン、トントン。

ノックをしてもシャッターの向こうには何かが動く気配はない。留守かなあ。でも今日は到着がいつもより遅い時間になってしまったから、もう外は暑いしなあ。小屋の外ではセミたちが大きな声をはりあげている。

トントン、トントン。
もう一度慎重にシャッターをノックしてから、それからゆっくりと静かにそれを上へと開けていくと、やっぱり今日も。内側の網戸のところで右往左往するいつものヤモリがひとり。

網戸の下枠のところを右に行き、左に行き、結局ど真ん中にやってきて、ごめんごめんと謝るこちらの声にまたしても右往左往。こっちも見かねて右往左往。しばらくあたふたしてから、それから彼が網戸の端のほうへと移動したのを見て、驚かさないようにそーっと網戸をあける。

この小屋の偉大な先輩との毎朝の寸劇は光栄ではあるけれど、このくだり、そろそろなんとかうまく話し合って折り合いをつけたいような気もする。忘れてたと言わんばかりの大きな「チュン」の鳴き声が、小屋に入ってからしばらく経ったのち、ようやく窓の外から聞こえた。

西瓜糖の日々

あるお店にこの夏入ってきたスイカはいつもの年よりも大きくて、1玉で13kgくらいの重みがあるのだとか。ひとがひとり、テントと水と食料を背負って3日ほど山を歩く時に背負うザックの重量がだいたいそのくらいだから、ひとが3日生きることの重みは1玉のスイカのそれと同じだと言えるのかもしれない。

「ひとの3日間は1玉のスイカにも若かない。」

灼熱の坂道をゆっくりと自転車でくだって小屋へと向かい、今日こそはヤモリを驚かせないようにしなければと手のひらで何度かシャッターをノックしてから、そろりそろりとそれをあけると、むせかえるような夏が小屋の中からあふれだした。

あっという間に夏が来て、入道雲の隙間から太陽がまぶしい。

すっかり収穫が終わって一面の野原になったトウモロコシ畑を横目に小屋に来て、それからシャッターを一気に上まであけると、その裏の古い網戸のうえで休んでいたいつものヤモリがびっくり仰天。大慌てで近くのクモの巣の中に突撃していく。その小さな背中に何度もお詫びを言ってからガラリと網戸をあけると、そのさまを枝の上から見ていた一羽のスズメが、短くチュンと鳴いた。

尖塔

瓦葺きの日本家屋や、曲がりくねった松の木や、ピカピカのモダンな建築や、モクモクと明るい入道雲や、ツルっとした案内板や、ガラス張りのエントランスや、ひなびた縁側の物干し竿や、ごうごうと音をたてる室外機や、だだっ広い駐車場や。そういったものたちに囲まれながら、一本の古い尖塔がどこか居心地悪そうに、じっと空に隠れるようにして立っていた。

「すぐれた表現はすべて自己懐疑的である。」
いつどこで見た言葉だったのか、そもそもこんな言葉だったのか、まったくもってさっぱり思い出せないひとつの言葉がぽわんと目の前に浮かんで、むこうの空をつんざいた。

夏めいた朝

小屋にむかう1時間ほどの自転車の道の、真ん中をすこし過ぎたあたりに、大きな農園と古い木造の民家があって、その農園の片隅に鉄管パイプで建てられた小さな東屋のような場所がある。

そこでは農園のひとがカゴに入れた野菜を売っていて、そのひとたちの日焼けした顔とうつむき加減の背中を忠実になぞるかのように、鉄管パイプの東屋は地を這うように低く構え、その下のひとがようやく立てるほどの高さの空間に、涼しげな黒い影を生みだしている。

今朝、しばらく降りつづいた雨が終わって一気に夏めいた空の下を抜けて、いつものように東屋の前を通りかかると、珍しく東屋には誰もおらず、しーんとした暗がりのなかに「雨の日はお休みです」と赤いマジックで書かれた小さな紙が貼られているのが見えた。

「雨の日はお休みです。」

その言葉のなんだか良い感じの響きを頭のなかで何遍もくり返しているうちに、自転車の道は次の農園を通りすぎ、ギラギラと太陽の照りつける一面のトウモロコシ畑の角を曲がって、それから古い材木屋さんの前へと差し掛かる。ざらりとした黄土色の土壁が塗られた小さな蔵の前では、夏の日射しの下で白いタオルを頭に巻いたひとが、目の前の木と格闘をくりひろげている。

小屋について自転車を停めて、それから窓を開け放つと、すぐ外の農園で元気に飛びまわるスズメたちの鳴き声の背後から、「ああ。。野菜がいっぱいしおれている。。」と呟く小さな声が漏れてくる。その溜息に鳥たちの声が重なって、やがてそれは晴れやかな笑い声にかわった。

セミ

この前の雨あがりの夜、今年はじめて聞いたセミの声はそのあとパッタリと聞こえなくなった。みんな、目の前に迫った満開の夏の訪れを、地面のなかで一緒に待ち構えているのだろうか。

近所の若い三毛猫はステンレスのポストのうえにペターっと腹一面をくっつけて、蒸し蒸しとした夕方の街に可笑しな顔を浮かべて呆けていた。このところの雨は遠い日の湿原を思わせるものなのか、ベランダの食虫植物から次々に新芽が生えてくる。

小屋のところでは軒下で雨宿りをしていた二羽の鳩がちょっとだけ気まずそうにこちらを見る。古いシャッターをガラガラと開けると、ひとりのヤモリが大慌てで軒裏へと駆けだしていった。

河原

何年か前のちょうど今頃の、雨あがりの河原のみち。

踏み跡

自分の歩いた跡もこのくらいのものであったら良いなあ、となんだかそんなことを思わせてくれるような小さな道、かすかな線。いつだったか、まだ新緑の芽吹く前のしずかな山で。