クリーニング屋さん

この1ヵ月ほどの間、毎日のように自転車で通るようになった新しい道の途中に、一軒の小さなクリーニング屋さんがある。そこは鉄道の駅からは離れ、下り坂と下り坂とが出会う住宅街の谷のようなところで、まわりには数軒の古い小さなお店が並ぶようにたっていて、どことなく慎ましい雰囲気が醸し出されている。

行きに通るときは、だいたいの場合そこにクリーニング屋さんがあることにも気づかずに通り過ぎてしまい、そのお店がそこにあることを認識するのは帰り道、暮れていく空を眺めながら自転車でのんびりとくだっていく坂道の左手にそのクリーニング屋さんが見えてきた時だ。

ゆるやかにブレーキをかけた自転車でその前を通るとき、お店に入ったことも、利用させていただいたこともないクリーニング屋さんの引き戸が開け放たれ、その引き戸のすぐうしろ、お店に入ってすぐのところに、小さな遺影が机のうえにちょこんと置かれているのがチラリと目に入る。

最初はほんのひとときそこに置いてあるだけなのかなと思ったその遺影は、はじめてみた時からまもなく1ヵ月が経とうとする今にいたっても、やはり同じ場所に、丁寧に立てかけられて置かれている。

一度見かけた旦那さんと思われるひとの背中は、やっぱりなんとなく寂しげに見えたようにも思えたのだけれど、でもその遺影がどこか裏手の住居のなかにではなく、そのお店の入ってすぐのその場所に置かれているということに、そのひとのなにかが込められているのかもしれないなと思う。

きっとあのひとは、あのやさしそうな顔を浮かべて、いつもあの場所に立っていたのだろう。ふたりでそのお店を、自分たちだけのお店をはじめて持った日の、溢れるような、張りつめたような気持ちがどことなく偲ばれてくるような感じがして、自転車のうえでほんのわずかの間、目を瞑る。

立ちかた

だれかの背中を見ているような気がした。

木を見ることは立ちかたを学ぶこと。
どんなに小さな木でも、どんなに枯れた木でも。

おなじひと

だいぶ前、冬枯れのやまを沢に沿っててくてくと歩き、前方に小さな分岐が見えた。

右に行くと山頂への急な登り坂、そのまままっすぐ沢をいくと稜線の鞍部にでるなだらかな道。鞍部までの途中には大きなトチの木の生えているところがあるらしく、水とトチの組み合わせにも興味を惹かれたけれど、その日は右に登っていくことに決めていた。前の年にもまったく同じ季節に同じ道をきたのだったが、今年もやっぱり右かなと思って、なんとなく右のほうを見上げながら歩をすすめた。

分岐のところまでやってくると、それまで誰もいなかった山道にはじめて見る背中がひとつ、下を向いて立っている。うしろから小さく挨拶をして背中の横をすりぬけて右のほうへと登りはじめたとき、ふと横に目をやると、そのひとの手のなかに5万分の1の地図がひらかれているのが見えた。

あっ。

このひとは去年もここにいたひとかもしれない。去年もこの分岐のところで、こんなふうに5万分の1の地図をひらいているひとを、見たのだったかもしれない。

思い違いだとは分かっていても、去年そのひとをその場所で見たのかもしれないということを否定することもできないまま、それが本当にあったことなのかどうかはひとまず山の道へと放り出して、おぼろげな記憶を紐解きながら明るい枝の下をくぐってぼんやりと急な坂道を登った。

坂のうえからふと左の沢のほうを見下ろしてみると、ほっそりと白く光る枝たちの隙間から、地図のひとがその地図をひらいたまま、ゆっくりと沢に沿って歩いていくのが見えた。やっぱりきっとあのひとは、去年もあの分岐のところで地図をひらいていたひとだったのだろう。そして去年もまっすぐにあの沢に沿って鞍部へと歩いていったひとなのだろう。なぜだかそう思った。

青空

なんか青空の写真を見たいような気がするなあ、と思って過去の写真を見返してみることが時たまあって、いっつも辿り着くのはこの写真。この日の山は、いったいどれだけ青かったんだろう。やっぱり今日も、仕事の合間にこの写真をなんとなく見返しては呆けている。

お詣り

小さな神社の社務所2階にお借りしていた机は、今日まで。

新しい事務所への引っ越しは金田さんの手をお借りして完了し、最後の掃除へ。この3年半ほどの間に訪ねてきてくれた友人たちが飲みきれずに置いていった缶ビールの山をザックにしまって、夏みたいに晴れた境内にてお詣り。

遊びに来てくれた皆さん、ありがとうございました。
新しい事務所のことは落ち着いたらお便りにてお知らせできればと思っています。

写真は机のところからいつも見えていた物置小屋。新しい事務所は、なんか、なんとなく、あんな感じのところです。これからも引き続き、宜しくお願いします。