大晦日

2018年も今日で最後。

この1年は、
北海道から九州までいろいろな場所を訪れて、
今までに無いくらい、
とてもとてもたくさんの人たちと新しく知り合うことができ、
なかなか会えずにいた人たちとも再会できたりもして、
感謝しきれないくらい多くの人たちにお世話になりました。

設計という仕事を通じて、
あるいは、時には酒場での他愛もない会話を通して、
いろいろな人に出会い、いろいろな人の声を聴くなかで、
自分だからこそ出来ることは何か、を深く考えさせられた1年でもありました。

皆様、本当にありがとうございました。
来年も宜しくお願いいたします。

水の湧くところ

30年前に遠くの山に降った雨が、地中深くに浸透して、
たくさんの細い道を通り、長い時間をかけて、ゆっくりと、

低く、ひっそりとした、静かな、
ここが自分の居場所なのだろうというような場所へと流れていって、
その場所で、地面の上に30年ぶりに顔を出すと、
時にはそこに大きな川が生まれていたりすることもある。

じっと積み重ねること。
黙ってずっと続けること。
の大切さを教わったような気もしました。

湧き水育ち

三島の黒猫。
よほど水が美味しかったのか、あるいは水に何か仕込まれているのか、
このあと、突如として、人懐っこい奴に変貌。

むこう

街から川の土手をのぼっていく時や、
知らない土地の階段をのぼっていく時に、きっと誰もが感じるであろう
あの形容しがたいようなわくわく感は、いったい何の記憶に起因しているのだろう。

いつかそこに居たことのある気がする、見たことのない
懐かしい場所へと還っていくような、おだやかな楽しさ。

土手や階段のむこう側を想像している時、
人の記憶の古層にある何かが、落ち葉のようにカサカサと静かに音を立てて、
思い出すこともないであろう遠い懐かしさのようなものを
ひっそりと感じさせてくれているような、そんな気がする時が確かにあって、
それはとても貴重な瞬間だと思う。

バルコニー

木々の向こうに、ゆるやかな川をのぞんで。

霧の草むら

ムーレンベルギア・カピラリスという名前のイネ科の植物。
あわいピンク色がふわふわと風に揺れていて、まるで幻想的な霧のようでした。

腰折れ屋根

牧草地の一角に佇む、腰折れ屋根の小屋。
その場所の風土と建物そのものの用途とが、佇まいの中にあっけらかんと反映された、こんな慎ましい小屋たちは、いつみても魅力的に映ります。

普通

去年行った函館で、なんだか妙に気になった、海岸通りの2軒。
ありふれたものの持つ、言葉にはあらわしたら消えてしまいそうなくらいちっぽけで、しかしどうにも不思議な力。

静けさ

小さな川の水面に揺れる木立ち。
街の中の、一瞬の静けさとやすらぎ。
建築を通して、こんな風に澄んだ一瞬の心地よさを表現できたら。

人と自然

瓦屋根の軒先と、大きな木の木陰とがつくりだす、シンプルで理想的な関係。

先日、茨城県石岡の落日荘を見学させていただいて、最も印象に残ったのは
そんな人と自然との素朴で根源的な関わり方と、
その中での毎日の小さくとも地道な積み重ね、
そして何よりもそんな目標を実現させるための粘り強い強靭な意思の力、でした。

心の奥に響く、素晴らしい環境と佇まい。
見学をさせていただき、ありがとうございました。

ゆるやかに傾斜のついた土地を下って行った先にある、円形の池。
その池を、周囲ではいろいろな植物たちが取り囲み、ベンチが設えられ、芝生には木々の影が落ちている。

そんな幾何学と場所との関係は、
少し前に行ったアントニン・レイモンド設計の南山大学の庭にもあったけれど、
なんとも言葉ではあらわすことのできない、どこか不思議なやすらぎと懐かしさがあるような気がします。

幾何学の中にある、時間や場所を超えた懐かしさのようなもの。
そんなものを自分の設計した建物や環境にもひっそりと込められたら良いなと、いつもそう思います。

さらしと金山焼

家で試作した「さらしのコースター」と、
五所川原の窯元でちょこちょこ買っている金山焼のカップ。

コースターのサイズがまちまち過ぎるな、、、
ちなみに、家には何年も前につくった大量の「さらしタオル」も。。

さらしの話はさておき、
津軽の金山焼の、まるで土そのもののような、素朴過ぎる佇まいがすごく好きなのです。