煙突の整列

函館の街角で見かけた小さな風景。

赤と青、素朴な2色のトタンの対比と、規則正しく並びながら広い空を支える煙突の列柱。

線をまたぐ

先日、鳥取のある茅葺き民家の内部を見学させていただいた時、天井材が漆で仕上がられ、小さな床の間まで設えられた、とても綺麗な部屋がありました。隣には木製桶のあるお風呂場。

脱衣場のように使うであろうこの部屋に、なぜこのような豪華な設えがされているのだろうか、と案内をしていただいた居住者の親戚の方に聞いてみた時のこと。

そこは客間の延長にあるお客様用の風呂場と脱衣場であるがゆえに、漆や床の間による設えがされており、そのような格の高い場所には子供の頃から日常の中で一度も足を踏み入れたことがなく、内部を一般に公開するようになって、初めてその部屋がどんな部屋なのかを知りました、との答え。

振り返ると、客間と居間との間には小さな段差があり、さらにもう1段、脱衣場の入口にも僅かな段差がつけられていました。

日本の木造建築の近代化・民主化は、余分な部材や段差を消し、線の少ないフラットな空間を求めるところから始まったものだと思います。近代化の中で消し去られてしまった「1本の線」の中に込められた深い意味と長い時間とを想いました。

写真は「勝浦の家」の床。桧のフローリングの小口にフローリングと同じ幅の見切りをまわし、豆砂利洗い出しの土間からほんの少しだけ浮かせています。

屋根の稜線

どこかの山の尾根のような、稜線のような、光る斜面。なだらかに続いていく屋根と空。

生きている架構

鳥取の茅葺き民家の梁組み。

うねりを持った梁が連続して架け渡されるさまは本当に圧巻で、有機的などという言葉を軽く飛び越えて、暗がりに満ちた小屋裏全体がうごめき、「生きている」かのようでした。

木材がかつて山の中で単体で生きていた時よりも、より生命感を宿した形となるように、人の手で加工をし、他の材と組み合わせ、新たに「生きている」ものとして生まれ変わらせること。そこにある、木に対する敬いや畏れのような感情。

そんなものが木造建築の架構の源にあるような気がして、何度か闇を仰ぎました。

茅葺き

先週末、鳥取県の大山町で開催された、第9回茅葺きフォーラムに参加しました。

茅葺き職人さんたちの熱い想いと、大山の澄み切った空気と、茅葺き民家に蓄積された長い時間と技術とを感じながらの、とても充実した2日間となりました。

建築の設計に携わる者の出来ることは何だろうか。これから少しずつ考えていきたいと思います。

工事中

現場。母屋と垂木の架構。

朽ちたものの芯の部分

ある時、とある板画家が、指導する学生の彫っていた人体の彫像に横から手を加えていくうちに、次第に熱を帯びていき、彫像はみるみるうちに細く細く削り取られ、儚く崩れ落ちるほどの細さになり、終いには全てが削り落とされて、目の前からは何も無くなってしまった。

先日、たまたま立ち寄った資料館に、もはや原型もはっきりとは分からないほどに朽ち果てている、小さな木彫りの仏像があって、その静かで素朴な美しい姿に、その場を立ち去りがたい深い感動を覚えるとともに、大好きな板画家・棟方志功のそんな逸話を思い出しました。

庭のレイヤー

京都、重森三玲庭園美術館の庭。

雨によって削られた石、水を含んで次第に鮮やかに色づく苔、剪定されながら太陽に向かって伸びようとする松、曲線を描くように優しく撒かれた水。

庭をつくった人、庭を伝えた人、庭を守る人。そうした見えない人の手が積み重なって生まれる時間のレイヤーと、天候や季節によって刻々と表情を変える石や植物たちのシンプルで複層的な佇まい。

素晴しい庭は、その造形的な美しさだけではなく、人の自然に対する謙虚さと、ものをつくり伝える強い意思とが相まって、はじめて形づくられるものであるようにも感じました。