ことばに、そっと小さな手が生えてくれたらいいのに。
くだらない妄想。

ゆきやなぎ

ベランダのユキヤナギ。腰壁の上を吹く風を避けるためか、先端の枝を枯らし、根元のほうから生き生きと枝分かれをくりかえして、年々低い姿勢になってきている。ほったらかしなのに毎年咲いて、力強いのに繊細で、上から見ると暗く尖り、横から眺めると澄ました顔で揺れていて、下から見上げると明るい。

こだま

知らない誰かがつかっていた製図板を昨年末にもらい受けたから、ずーっとつかっている製図板(これは知っている誰かからのもらいもの)を小屋に、あたらしくもらった製図板を自宅にそれぞれ配備して、透明な紙の上に線をひく毎日を茫々とつづけている。

あたらしくもらった製図板は、ずっとつかっていたほうの製図板とはほんの少しだけつくりが違うから、最初はちょっとの操作に戸惑いを感じたものだけど、幾度も夜半の時間を共にしているうちにその戸惑いはさーっとどこかに消えていった。ひとのくり返す習慣には、なんというか、なんとも不思議な強さがある。

机の右側に積みあがった古いジャマイカのCDの大群の、その一番底のほうから久しぶりに『world of echo』を発掘して、それをよく聞いていた頃に読んでいた本を今度は机の左側から引っ張り出してみる。

「彼はただ、書かれたものを構成している痕跡のすべてを、同じ一つの場所に集めておく、あの『誰か』にすぎない。」

アーサー・ラッセルが80年代のニューヨークでやっていたことを、70年代のバルトは『作者の死』と題されたその文章の中でほんとうにうまく表現していて、その言葉は製図板のうえを滑るシャープペンシルを一瞬のうちに追いこして、透明な紙のむこうに走っていく。すーっと。音もなく。

窓のそとではベランダのユキヤナギが、春の午後に今日も次々と小さな白を咲かせている。去年もやってきた数羽のスズメがひさしぶりに腰壁のところにとまって、その白の下のあたりをしきりにのぞきこんでは、首をひねってあそんでいる。

半月

小屋からの帰り。ぶおんぶおんと大袈裟な音をたてて車やトラックが行き交う大通りの坂の途中、なんとなくひとつの木と目が合ったような感じがした。

その木の前を通りすぎ、しばらくペダルを漕いでから、それからやっぱり自転車を180°回転して登りかけた坂道を引き返す。さっきの木がさっきの場所に、まっすぐに暗闇を突いて立っている。

木のてっぺんの真上には白い半月がゆらゆらと揺れていて、すこし先の道ばたでは小さな花束を抱えたおじいさんが茫々となにかを見つめていた。

雪と木の遊び

この前の雪の日の翌朝、いつもの公園の林の机で自転車に座って弁当を頬張っているとき。小さな音がして、すぐそこの空中を小枝や木肌が真っ白な雪と共に地面のほうへと落ちていった。慣れない雪の重みに耐えかねたのだろうか。なんだか雪と木が久々の再会を懐かしみ、遊んでいるみたいにも見えた。

かわらないもの

「どんな感情がひとのやる気を一番大きくするか、知ってる?」

設計の仕事に携わりはじめたばかりの頃、ある女性の先輩にそんなふうなことを聞かれた。なんですか?と答えた自分にそのひとは間髪いれずに早口で言った。

「怒りだから。」

机にむかうとき。三角定規を構えて鉛の線を一本一本走らせているとき。自転車を漕ぐとき。湯たんぽを抱えて丸くなっているとき。今でも変わらないものがあるとしたら、それはたとえばどんな感情だろう。

かわらないもの。かわれないもの。かわることができないもの。

きのうの小屋は春めいて、窓をあけると農園のひとたちがあちこちで土を耕しているのが見えた。鳥たちが春だ春だと鳴いていて、その声に背中を押されながらいつもの机やベニヤの床をせっせと雑巾で磨いた。