こだま

知らない誰かがつかっていた製図板を昨年末にもらい受けたから、ずーっとつかっている製図板(これは知っている誰かからのもらいもの)を小屋に、あたらしくもらった製図板を自宅にそれぞれ配備して、透明な紙の上に線をひく毎日を茫々とつづけている。

あたらしくもらった製図板は、ずっとつかっていたほうの製図板とはほんの少しだけつくりが違うから、最初はちょっとの操作に戸惑いを感じたものだけど、幾度も夜半の時間を共にしているうちにその戸惑いはさーっとどこかに消えていった。ひとのくり返す習慣には、なんというか、なんとも不思議な強さがある。

机の右側に積みあがった古いジャマイカのCDの大群の、その一番底のほうから久しぶりに『world of echo』を発掘して、それをよく聞いていた頃に読んでいた本を今度は机の左側から引っ張り出してみる。

「彼はただ、書かれたものを構成している痕跡のすべてを、同じ一つの場所に集めておく、あの『誰か』にすぎない。」

アーサー・ラッセルが80年代のニューヨークでやっていたことを、70年代のバルトは『作者の死』と題されたその文章の中でほんとうにうまく表現していて、その言葉は製図板のうえを滑るシャープペンシルを一瞬のうちに追いこして、透明な紙のむこうに走っていく。すーっと。音もなく。

窓のそとではベランダのユキヤナギが、春の午後に今日も次々と小さな白を咲かせている。去年もやってきた数羽のスズメがひさしぶりに腰壁のところにとまって、その白の下のあたりをしきりにのぞきこんでは、首をひねってあそんでいる。