たまたまいただいたオートミールに、もらいものの豆やら残りものの豆やらを混ぜ合わせて、フライパンの上で炒る。それぞれに違うところから寄せ集まった豆たちが、高温のフライパンの上でごったに炒られて、小さくてバラバラなものになっていく。

それぞれの豆の違いが焦げ目のついた色そのものに変換されて小さく砕けていったところに、ナツメやハチミツや余りものの黒糖を入れる。しばらく冷蔵庫で冷やしてみると、小さな豆たちは互いにくっつきあって、なぜだかひとつのものになった。

山でそれを包みから開くと、冷蔵庫から出した時よりはパラパラとしはじめているけれど、それでもかろうじて全体がくっついて、ひとつの固形になっている。食べてみると、おどろくほど美味しい。

それぞれに異なるところからやってきたいろいろな小さなものごとが、バラバラなまま、ある時たまたまひとつの状態にまとまること。その状態はそう長くは続かないのだろうけれど、それがいいのだと思う。豆に学んだ小さなこと。

重ねたものの薄さ

むかし買った本をパラパラとめくっていたら、図面というのは手紙のようなものだと、ある尊敬する建築家のひとが言っていた。

おんなじだ。自分の身分も顧みず、失礼にも勝手にそう共感をしてしまう一方で、その手紙らしきものがそれを手渡したひとに「届いた」と思えた瞬間はいったい今までにいくつあっただろう。片手で数えるほどのその瞬間をひとつひとつ丁寧に想いおこすと、なんだか遠くの山を見上げたくなるような気持ちになる。

トレーシングペーパーに描いてきた何百枚か何千枚かの図面たちの、その全部を小屋の箪笥から引き出して机の上に置いてみる。持ってみると意外に重いそれらの紙の束は、けれどその全てを積み重ねてみたとしても、すかすかの空気で膨らんだポテトチップの袋の厚みとそうそう大きな違いはない。

その薄さ、幾重にも積み重ねられたトレーシングペーパーの束のその存在の希薄さに、どういうわけだかホッとした心地がするのはなぜだろう。いつか、小屋の屋根が朽ち果てて大雨が吹きこんできたとしたら、きっとこの紙の束たちは透明な水の中に一瞬でその姿を溶かしていくのだろうな、と思う。

ひとが「白」の中に、あるいはその向こうに何を見ているのかは、とってもいろいろでさまざまだな、と思う。白のなかの影の部分は、時に、森のように深くて蒼かったりもする。

ひとり

和菓子屋さん、ワンタン麺屋さん、布団屋さん、パン屋さん、手芸屋さん、煎餅屋さん。この数年の間に近所では、お世話になったいくつもの古いお店が小さな店先のシャッターを閉めた。

後を継いでくださるひとがいたら良かったのになあと茫々と思う一方で、それらのお店の素晴らしさは、その「お店」とそれを営んでいる「ひと」ととが切り離せない関係であるからこその素晴らしさだったのだとも感じる。

ものとひと。あるいは空間とひと。それらがもっとも密接な関係を結ぶのは、そこに在るひとが「ひとり」である時だと思う。動かす手の数が少なければ少ないほど、その手がつくりだす「もの」と、それをつくる「ひと」との関係は、切り離すことのできないものになっていく。

そのひとのつくった和菓子じゃなければ、そのひとのつくったワンタン麺じゃなければ、そのひとのつくった煎餅じゃなければ、ダメなのだ。そうじゃなかったら、もう、その店がそこに在り続ける必要は、きっとないのだ。その潔さ、その静かな強さが、閉めてしまった小さなお店ひとつひとつの眩いような美しさなのだと、自分には思える。

姿勢

ケツは低く、志は高く。

たしかシカゴの地下音楽について書かれていた小さな文章の中に、そんな言葉を見つけたのは、もう四半世紀くらい前のことだったかもしれない。

ココロザシというやつはなかなかに厄介な代物で、ココロザシを高く持たんとするニンゲンのケツは、いつだって宙高く浮き気味だ。かく言う自分にココロザシなんてものがあるのかは分からないけれど、自分のケツの低さにはいつだって自信がない。もっと低く、もっと低く。そう思い続けても、大きなココロザシらしきものに惹きつけられた身体はふわふわと浮き上がり、折れ曲がっていたはずの2つのヒザは重力を忘れて能天気に伸びあがって、靴底はいつしか地面を離れて元いた場所を見失う。

ココロザシは目に見えないものだから、言葉をうまく取り繕えば、その高さらしきを誰かに伝えるのは案外にたやすい。一方で、ケツの低さを取り繕うのは難しく、毎日の暮らしの中で養われた姿勢が、そっくりそのままそのひとのケツの高さにあらわれてしまう。

ニンゲンというものは、目の前のひとの顔上に浮かんだ煌びやかなココロザシにまずはどうしたって目を惹かれるものだから、そのひとの裏側にあるケツの高さが見えてくるまでには、暗闇の山の月明かりの下にぼんやりと道が見えてくるようになるまでの時間と、概ね同じくらいの時間が必要になったりもするかもしれない。

街でも山でも、あるいは海の上でも、ケツの高さを変えると見えてくるものの景色はガラリと変化する。展望台から見下した森は明るく開けているけれど、彷徨い歩き、途方に暮れて座りこんだ森の底から見上げたそれは、どこまでも暗く深い。

ケツの低さは一瞬の動作で取り繕えるようなものではないから、ひとが見ることのできる景色は、そのひとの日々の暮らしの姿勢によってさまざまに違っている。だから、そのようにして見えている景色の違いは、そのひとが持っているかもしれないココロザシの種類にもきっと大きな影響を及ぼしているんじゃないかと思う。

「唯一わたしがやりたかったのは、人々に笑いという救いを与えることだ。ユーモアは人の心を楽にする力がある。アスピリンのようなものだ。」(カート・ヴォネガット)

未来を快適にするビタミン剤やたくさんの環境を豊かにする肥料をつくろうとするひとと、それを手にすることのできない誰かのための鎮痛剤にならんとするひと。それぞれのひとのケツの低さは、例えばどのくらいだろう。

小屋のトネリコが午後の光のなかでウトウトと午睡をしていた。