遠くの国で、大きな声を張りあげているひとがいる。

ベランダのユキヤナギの芽は、日に日にぷくぷくと膨らんで今にも新しい生命が飛びだしてきそうな気配がする。川沿いの道をツグミがトコトコと歩いてたちどまる。シジュウカラが公園の木の上でおしゃべりをしている。

この前の雪の日、木はとても静かだったな、とふと思う。

古い網戸

「硝子戸の中から外を見渡すと、霜除をした芭蕉だの、赤い実のった梅もどきの枝だの、無遠慮に直立した電信柱だのがすぐ眼に着くが、その他にこれと云って数え立てるほどのものはほとんど視線に入って来ない。書斎にいる私の眼界は極めて単調でそうしてまた極めて狭いのである。」

漱石の『硝子戸の中』の書き出しはそんなふうにはじまるが、小屋の土間の古い網戸の内側から外を見ていると、その「極めて単調で」「極めて狭い」視界の中の平凡な情景をつぶさに観察して記そうとした漱石の感じの、その中のせめてほんのひとかけらくらいの感覚は、自分のような凡庸な人間にもなんとなく分かるような気がしてくることが、あったりもする。

古いものの内側から遠くの新しいもののほうを眺めると、そこにはぼんやりとした距離のような、余白のようなものが生まれる。そしてひとの内側は、なんだか静かになってくる。古いものの価値は、たとえばそんなところにも、あるのだろうか。

春の前

自転車を漕いで温まった身体で、きーんと冷えた小屋へと入る。
梯子をのぼってトタンの湯たんぽを卓上のガスコンロで暖める。

ぽっ。と火がついて、冷えきったトタンの表面がじりじりと音をたてる。火が水を暖めていく音は本当に静かで、それでいてなんだかやわらかい。いつまでも聞いていられるなあー、と思いながら仕事の準備をはじめているうちに、自転車で温まった身体がぐんぐんと冷えていく。

じーっと動くことのなかった透明な水が、次第にふつふつと音をたてて、湯たんぽのなかで少しずつうごめきだす。窓の内側でぼんやりと座っているツタ性のガジュマルがぷっくりと葉っぱを充実させ、元気よく太陽のほうを向いている。

もうすこしすると、春なのかもしれない。

暮らし

地に足をつけて毎日を暮らすと、良い図面が描けるのではないかと思っている。

日々の暮らしが、自分の手や、その手で描く図面に否応なしにあらわれてしまうところを何度も目の当たりにしてきたから、だからサボりがちな身体を動かして、自分のペースで自分なりにきちんと毎日を暮らそうと少しでも努力をしてみることは、きっと良い建築をつくることに遠くのどこかでつながっている。