町のかたち

最近はじめて訪れた町で、それぞれの町の夕日に出くわすことが何度かあった。

山にかこまれた盆地にある平らな町、斜面にくっつくようにして立っている小さな町、やわらかな海をかかえた港の町。それぞれの町にはそれぞれに固有のかたちのようなものがあって、そうしたかたちをほんの束の間、夕日のおちていく前のひとときが空のむこうにくっきりと浮かびあがらせているようでもあった。

昼の空気に霞んでいた遠くの島や、雲のむこうにかくれていた向こうの山。あるいはそのまたむこうに横たわっていたおだやかな山脈。

きっとその町のひとたちはそうしたかたちに囲まれて、ずーっとむかしからその場所で暮らしてきたのだろう。真昼の時間には見えてこなかったそんなかたちのいくつかが、あっと息をのむ間もなく冷えた空気のむこうにふっと浮かんで、それから真っ暗な夜がしんしんと歩み寄ってきて、深い闇がそうしたかたちのひとつひとつをすっぽりとくまなく覆い隠していく。闇にかくされてしまう前のかたちを、ひとはなんとか自分の心にとどめようとする。

はじめて訪れた町で夕日を見ることができると、だからほんの少しだけ、その町のかくされた姿のようなものに親しむことが出来たような、なんだかそんな気分になることが出来るわけで、きっとそれは新参者のいだく幻影ではあるけれど、それはそれでひとつの町とひとりのひとの関係のあり方なのではないかと思ったりもする。

ひとが古いものを壊し、新しい建物をたて、山を削り、海を埋め立てても、それでもなおたいして変わることのないその町のかたちがあるとしたら、そのかたちに出会うことが叶うのは、あざやかな朝でも明るい真昼でもなく、暗い夜の訪れる前のほんのわずかな数分の間であったりもするのかもしれない。

余白

「眺望が良い」ということの良さが自分なりに理解できるようになったのは比較的最近のことで、それまでは山や森はその内部に入りこんでいけるからこそ素晴らしいのだと感じていた。そんなふうにしてふらふらと内側を歩きまわることばかりを楽しんでいて、あれはいつ頃だっただろうか。あるとき、それほど都会から離れていない場所にある小さな山に登った時に、ふいに冬枯れの林のむこうに東京の街並みが霞んでみえたことがあった。

その山はたいして高い山ではなかったから、そこから見える街並みは、どこか高いところからそれを見下ろしているという感じはなく、その街と自分との間にたっぷりと大きな余白があって、その余白をはさんで遠くから水平に街を眺めている、という感じがあった。高さの違いがすくないぶん、距離の感覚が際立っていて、むこうの街と自分との間を低い光に真っ白く照らされた冬枯れの枝たちが一面におおいつくしていた。

そこから見えたむこうの街では、たぶんたくさんの誰かが今日もせわしなく仕事に追われたり、なにかを考え込んでみたり、あるいは自己を主張し合ったりしているのだろうと思われたのだけど、ついさっきまでその真っ只中に居た自分自身と、その街との間にある十分な余白、たっぷりとひらけた距離が、なにかそういった日々の重々しいあれこれを大らかにすいこんで、ふーっと軽い空気に変えて息をはきだしてくれているような、なんだかそんな明るい感じをその時の自分は覚えたのだった。

山や森のかたちをした大きな余白がふーっとゆっくり呼吸をするたびに、さっきまで肩に入っていた無駄な力がゆるゆるとほぐれて、ふんわりと軽やかな雰囲気に満たされていく。その息づかいをうっすらと身体に感じているうちに、むこうの街にいるひとたちのひとりひとりにまっさらな気持ちで素朴にむきあうことが出来るようにも思われて、なるほど眺望というものはつまりそんなようなわけで素晴らしいものなのかと、遅ればせながらその時はじめて気がつくことになったのだった。

小屋のこと

それまであたりまえのように手にしていた何かを捨てて、あたりまえでない何かをはじめることは、簡単そうに見えて、なかなか結構むずかしい。あたりまえのように手にしていた何かを捨てるには動機がいるし、あたりまえでない何かをはじめるには、たとえそれがどんなに小さなことだったとしても、ある種の憧憬のようなものの力を借りる必要だって時にはあるのかもしれない。

おとといの夕方、山のむこうの遠くの町のあるひとから電話が鳴った。

そのひとが大工さんの力を借りながら自分の手でたてた山麓の小屋を最後に訪ねたのは、小屋のまわりの白樺林の斜面が一面の真っ白い雪におおわれはじめていた頃だから、ちょうど2年前の今頃で、そのときはまさかこんなにも長い間、その小屋やその町に行くことが出来なくなるなんて思ってもいなかった。

そのひとと会話をするのは相当ひさしぶりのことだったから、本当はこの2年の間のあれやこれやのよもやま話などを電話口で報告するべきだったのだろうけれど、そのひとにまず自分が伝えるべきことはただひとつ、この小屋のことなんじゃないかなと思って、この小屋でのあれこれを簡潔にお話しすることにした。

それまで使っていた事務所の場所を退去して、半年ほど前からこの小屋を使うようになったこと。ここが古い農小屋で、ここには水道も電気もガスもひかれていないこと。だから水と食料と蓄電池をいれたザックを担いで自宅からこの小屋に通っていること。片道1時間、寄り道をしながらひとりのんびりと自転車を漕いでくる道中が山の道のようで楽しいこと。冷房も暖房もないから、今は冬山に行く時の服装で仕事をしていること。蓄電池に繋いだ小さな裸電球の灯りの下で、いまこの電話にでていること。

だいたいそんなようなことを、電話のむこうのひとに手短にお伝えした。動機は特に言わなかったし、たぶん言う必要もないだろうと思った。ただ、そうしたことのすべてが、水も電気もガスもないどこか遠くの山の中を、のほほーんとひとりで歩いていくような気分とむすびついているような感じがすることぐらいは、きっと、なんとなく分かってもらえるんじゃないかなあ。

「おまえ。」

案の定、電話口のむこうの声がにやりと弾んで、そう言った。

「おまえ、それは、おれと同じじゃないか。」

前に見た山

山に行って、すこし前に歩いた山が見える。
そうすると、その山を歩かなかった時に見えていたものとは、また違ったなにかが見える。

それと同じようなことが、ひとが自分の手足を動かしてなにげなく暮らしている毎日の中にもたぶん確かにあって、だから少しでもたくさん手と足を動かして、暮らしていけたらと思う。

さっきノートにむかいながら、ふと思ったこと。

山のこだま

シラビソ、オオシラビソ、トウヒ、カラマツ。
しーんとした針葉樹の森にぐるりと周囲をかこまれた山の池は、ちょっとの音や小さな声がこだまして、ほんとうによく響く。

夕方、テントのそばの池のほとりに座っているとき、小屋のひとがなかなか現れない宿泊者のひとを探しに、池の反対側からこっちまで歩いてきた。どうやら宿泊予定のひとが途中の山でちょっと道に迷ってしまったとかで、小屋に着くのが遅れてしまっているらしい。心配そうな顔つきの小屋のひとはそのまま池のまわりを奥へと進んで、森の入口のあたりへと向かっていく。

「おーい、○○さんいますかー!?」
小屋のひとの大きな声がきーんと冷えた静かな池のまわりにこだまする。

「はーい!!」
もうじき日没を迎えようとする薄暗い森の見えないどこかから、女のひとの元気な声が返ってきて、それから間もなく、ほっとした顔をした小屋のひとと宿泊者のひとが、そろりそろりと池のところへ歩いてきた。

稜線

朝、1時間ばかり電車に乗って、はじめての駅におりて改札を通って外へと出たとき、道のむこうにくっきりと、ある山の大らかな稜線が見えた。

次々に車の通りすぎる大通りを歩いて駅から目的の場所へとむかう道すがら、その稜線は2階建ての家やビルの影にかくれてすっかり見えなくなってしまったのだけれど、目的の場所に着いたとき、畑のむこうにもう一度その山の稜線がぽかーんと大きく浮かんでいるのが見えた。

ずーっとむかしのある時にも、あの稜線をこの場所から見ていたひとがいたのだろう。そのひとはきっと地面の土を耕しながら、あの稜線を仰ぎ見ていたのだろう。なんだかそのことを忘れずにいようと思った。

川沿いのみち

上流から何度かのゆるい蛇行をくりかえした川は、ちょうどそのあたりでまっすぐに西から東へと流れの方向を変えて、その川に沿って両側にまっすぐな細い道がつづいている。南側にはケヤキ並木が、北側には大きな木々の生えた古い家が並んでいるから、東西の方角にだけ空がぬけている。

このまえのある日、いつもそうするように、その川に沿って西のほうへと歩いていって、それからしばらくして東のほうへとてくてくと歩いて戻ってきた。きーんと空気が冷えはじめた秋の夕暮れで、西の空にはムクドリの群れが羽ばたいて、東の空にはまん丸い月がぽかんとひとつ浮かんでいた。

ムクドリたちは西のほうへと飛び立ったかと思うと、ぐるりと旋回して、また同じ古い大きな木の上のほうへと戻ってくる。するとその木の中でヒヨドリとオナガがざわめいて、ムクドリを追い払う。追われたムクドリたちはまた西の空へと羽ばたいて、それからぐるりと旋回して、そうしてまた、ヒヨドリとオナガが大声でざわめきだす。

その様子を見ていたのか、あるいは気にもとめていなかったのか、木の下のあたりの川から一羽の大きなシロサギが飛びたって、川沿いを西のほうへと飛んで、それからやはりぐるりと旋回して、東のほうへと戻ってくる。すーっと下降した白い翼は、川のへりの下へと見えなくなって、音もなく水のうえへと滑りこむ。

二羽のカモが東のほうから水平に飛んできて、真っ赤に燃えた西の空をまっすぐに見すえながら速度をあげていく。川のほうを見下ろすと、また別のカモが二羽、ゆるやかな流れに乗るようにして水の中を東のほうにすいーっと静かに進んでいく。

川と道のへりのところから何かの雑木が川に向かって生え出して、川面に小さな木陰をつくっている。水中を行く二羽のカモは夕陽に照らされた明るい水面から、その小さな雑木の影のほうへとゆっくりと後ろ足を漕いで、それからその木陰の中にすいこまれる。カモの背中で夕方の光と葉っぱの影がちらちらとゆれる。

「細長い世界だね。」

すぐ横を通りすぎていった小さな女の子が、手を引いて歩く母親のほうをむいて、そんなことを言っているのが聞こえた。

山のひと

山を歩いている見知らぬひとを無闇に写真におさめることを慎もうと思う気持ちは、ふと訪ねた旅先の小さな教会の内部をカメラに写すことをためらう気持ちと、どこかとてもよく似ている。

山の上で日が暮れて、道の横になにげなくひとりのひとの影が浮かんだ。その影のあまりに純粋な形に思わずシャッターボタンを押してしまい、それから我に返り、影くらい、背中くらい許されるかな、、、とひとり悶々と苦しい言い訳を心の中にならべながらとぼとぼとテントのところに戻った。振りかえると、影はもうまっさらな夜の闇にのまれていた。

砂場のへり

美しいへりをした山のうえで、ある本の中に書かれていた「雲のへり」という言葉を、なぜだか何度も思いだしたことがあった。雲のへり、山のへり、町のへり。「へり」という不思議な2文字の響き。

小屋の近くには小さな公園があって、さっきそこを通りかかった時、何の気なしにその公園の砂場のへりにひょいと登ってみた。砂場の周囲をぐるりと囲う、わずか15センチほどの高さのちっちゃなへり。

その細いへりの上を、どこかの山のうえの岩場か何かだと自分に言い聞かせながら、落ちないように歩いてみる。誰もいない砂場の四周をぐるりと回って、もといた場所に戻ってくる。そうして、その小さなへりの上から砂場のむこうをなんとなく眺めたとき、自分の立っている砂場と、そのむこうの1本の木と、さらにそのむこうにある水飲み場とが、ひとつの軸線の上にすーっと揃えて配列されていることに気がついた。

小さなへりの上から見える砂場と木と水飲み場だけのなにげない風景は、完璧な左右対称をなしていて、そのさまがなんだか微笑ましい。ここに木を植えたのは公園課の職員さんか、はたまた植木屋さんか。それともまったくの偶然なのか。あるいは1本の木が自らの意思でこの軸線の上を自分の居場所と決めたのか。

道のほうから子供のはしゃぐ声がして、公園をめがけて全速力で駆けてくるのが目に入る。砂場にひろげた空想を片づけて、小さなへりから地面に降りると、その正対称の幾何学はふいっと静かにどこかへ消えた。

黒い日傘

朝、夏が少しだけ帰ってきたかのような陽気のなかを自転車で進んでいると、商店街の道の先に、大きな花束が揺れているのが目に入った。

少し腰の曲がったひとりのおじいさんが左手にもった花束を肩に担ぎ、むこうのほうへと歩いていく。肩に担がれた花束はおじいさんの背中の隣でゆらゆらと風に揺れて、古ぼけた街並みの中に鮮やかな色を咲かせている。

黒っぽい服を来たおじいさんは、スポーツシューズをはき、キャップをかぶり、黒い日傘をさしていて、腰にはポーチをさげている。たぶんそれなりに長い道のりを歩いていくつもりなのだろう。商店街を抜けて坂道をゆるやかに下っていった先には、坂の途中に大きなお寺があるから、あのお寺の中のお墓に向かって歩いていくところなのだろう。

おじいさんの横をゆっくりと自転車で追い抜く時、ちらりと手元を見ると、黒い日傘の根元をぐいと握った右手が勇ましい。男のひとが持つにはいくぶん可憐にも見えるその日傘は、あるいはもしかしたらおじいさんの持ち物ではなく、これからむかうお墓のひとがかつて持っていたものなのかもしれない。

大きな花束を抱えて、一歩一歩前へと進んでいくおじいさんの姿を背中に感じながら、自転車は坂道へとさしかかる。坂のところのお寺の境内では、大きなケヤキの木に何匹かのセミがしがみついて、最後の声を振り絞り、夏の余韻をギリギリのところで醸し出している。おじいさんが手を合わせた時、まだそこで彼らが鳴いていると良いなと思う。

それから自転車は坂道をくだりきり、橋を渡って蕎麦屋さんの前を通りすぎていく。ふと道ばたに目をやると、蕎麦屋さんの脇の小さな通路のところに、ビニールひもでふわっと束ねられた彼岸花が、花盛りをすぎてもなお太陽のほうを見上げ、じっと静かにその場に佇んでいるのが見えた。耳の奥でセミの声がした。

遠いところ

「てっぺんへ出ると、私は素晴らしく大きくなった。山のように大きくなった。」

今にも押しつぶされてしまいそうなほどに重たい日々の暮らしを、淡々と短い言葉で刻みつづけたある古い女性の詩人の、その言葉の片隅に、ほんの時たまふわっと幻のようにたちあらわれてくる山のイメージは、たぶんそのひとの過ごした低い低い毎日の、その低さのぶんだけ高くて大きなものになるのだろう、

自転車に乗って小屋に来る道すがら、そんなことを茫々と考えた。

そのひとの詩のなかに存在する山は、地べたを這うような凡庸な毎日があってこその山なのであって、そのような日々のないところに、きっとあの山はないのだ。

雨に濡れたずぶずぶの土の道がおわって、木道がはじまるところ。その両脇に大きな木が同じような高さで門のように聳えたっていた。いま久しぶりに写真で見てみると、そのふたつの木の間に見えない境界がぴーんと張られているみたいな感じがする。道よりも土よりも、誰よりもその2本の木が、瑞々しい。

白樺

冬のおわり頃、ふかふかの落ち葉とカラマツの斜面をぬけた先に、ぽつんと立っていた1本の白樺。その一帯だけ、ぽわんとほのかな明るさがまたたいて、そこにはない真っ白な雪が周囲の木々の足元に浮かんでくるかのようだった。

ある話

「これは、ちょっとした心づかいみたいな塗料なんです。」

もうだいたいその日の話も終わりにさしかかるころ、大きなカバンの中から取り出した1枚の紙をちょこんと机に置いて、そのひとはそんなことを言った。

「これは垂木とか板材とか、そういった木材の小口を水分から保護して割れにくくするための塗料なんです。他の塗料に比べて、水に対する耐久性が2倍くらいあって。でも木材の小口なんてたいした面積があるわけじゃないから、だからこれを塗ったからといって目に見えて何かが違うとか、そういうものってわけではなくて。

たとえば工務店さんや塗装屋さんがこの塗料を1缶持っていて、特に誰かが頼んだわけではないけれど、木材の小口にひと知れずさっとこの塗料を塗ってくれる。そうすると、ほんのわずかなことだけどなにか違うような気がするね、なにか割れにくいような気がするねっていう、そういうちょっとした心づかいのような塗料だと自分では思っているんです。」

話を聞いた瞬間、ぱーっと目の前に浮かぶ職人さんの背中がある。あーきっと、あの塗装屋さんだったら、何にも言わなくてもこの塗料を現場に持ってきて、それでさらっと塗ってくれたりするんだろうなあ。そんでそれを見ていた大工さんは、塗装屋さんが帰ったあとで、「やっぱあの塗装屋は良い塗装屋だよ。」ってボソッと言ったりするんだろうな。

いま目の前で塗料の話をしてくれているひとと、きっと今はどこかの現場にいてせっせと塗料を塗っているのであろう塗装屋さんとを、なにか小さなかたちでも繋ぎあわせることができたらなあ、とふと思う。
もう何年も前からずっとお世話になっているそのひとが、その日、電車を乗り継いで、この場所に塗料やその他もろもろのことの話をしに来てくれているということ自体の中に、何かちょっとした心づかいのようなものがあるのだということが、自分にはなんとなく分かるような気もする。

そういうことのすべては、やっぱり全部気のせいなのかもしれないけれど、でも自分のおもう建築って、なんだかそういうものなのではなかったっけ。。

目に見えて何かが変わるわけではない、誰に頼まれたわけでもない、でももしかしたら少しだけ何かが違うかもしれない、ちょっとした心づかいのようななにか。道ばたのあちこちに咲いているサルスベリの花を目の隅で眺めながら、小屋からの帰り道、自転車のペダルをぐいぐい踏んだ。

掲載のお知らせ

たとえばいま、すぐそこに、なんてことのない一本の線があるとして、その線の片側にはそれを最初に描いた誰かがいて、もう一方の片側にはこれからその線をたどっていこうとする誰かがいる。一本の線は気まぐれにその両者をむすびつけたり、繋ぎあわせたり、時にはあっさりとその関係を切断してしまったりもしながら、悠々と静かにむこうのほうへとのびていく。

その一本の線のあとを追いかけているうちに、ついうっかりうたた寝をし、ふと起きて、寝ぼけた目でもう一度その線を眺めてみる。すると、さっきまで見えていたひとの姿はすっかりどこかに消え失せて、目の前の線は単なるただの線にしか見えず、その線のまわりには誰もいないガランとした空間がひろがっているように思えてくる。線は結局のところただの線でしかない。多くの醒めた目にとって、そうであるように。

けれどもそこでもう一度目をこすり、その線のこちら側やあちら側にいるのかもしれない誰かの存在を想像してみることをやめずにつづけることができたら、それはそれでひとつのちっぽけな意思のようなものの表明くらいにはなり得るんじゃないかと、そんなことを思い浮かべてみたりすることが時たまあります。

・・・

「どんな本でも良いので、本棚から好きな本を選んで書評を書いていただけませんか。」

新緑がみずみずしく山の斜面をおおって、あちこちでヤマブキの花が咲いていた春の頃、そんなうれしいお声がけをいただいて、それからゆっくり時間をかけて小さな文章をひとつ書きました。きのう発売になった『住宅建築10月号—山から住まいへ』の巻末に、ちょこんと掲載していただいています。

なにかを「評」するなんて、そんなたいそうなこと、自分なんぞには到底できるわけもないだろうと考えて、土に近いどこかとても低い場所から山の上の木をまっすぐに見上げるような気持ちで、自分が憧れつづけてきたもののことを書きました。『線をたどる』というタイトルの見開き2ページ弱ほどの小さな原稿です。もしも本屋さんでたまたま見かけたりすることがあれば、ちらりと一瞥いただけたらうれしいです。

笹の尾根

目の端でなにかが揺れて、ちっちゃな影が額のあたりをちりりちりりと動く。
変わり映えのないなだらかな尾根道の、あれはいったいどのあたりだったっけ。ちりりちりりと揺らいでいるものの隙間から、小さなシジュウカラが懸命に枝を蹴って飛んでいく。なんてことのない山頂からまた次のありふれた山頂へ、揺れずに立っているものと、揺れながら光っているものの間を、ただ淡々とまっすぐに道が縫っていて、乾いた笹の葉がじんわりと太陽に焼かれていた。

谷底の蛍

暗い谷に時たま何かの拍子にうまい具合に光が射しこむと、細い枝や枯れ木や雑草や、そうしたなんてことのない平凡なものが、それ自体の内側からじんわりと光っているように見えるときがある。まるで山にかくれた小さな蛍の群れのように。この日の谷ではほっそりとした枝の群れがチラチラと蒼っぽい光を放ちながら、沢の左右を跳ねるように飛びまわって遊んでいた。

坂道

小屋にむかう道の途中に、両側に斜面が落ちたちょっと小高い丘のようなところを走る道があって、その稜線の上を今日もまっすぐに自転車を走らせる。

少し前にざーっと降った雨はすぐにやんで、ギラギラとした夏空のむこうにさっきまでの雨雲のかたまりが流れていく。

稜線の上から左の坂道のほうを見下ろすと、白い帽子をかぶった女の人が自転車を漕いで坂道をおりていく。その後ろ姿のむこうにガランとした学校のグラウンドが広がって、その先にひらけた視界の中に大きな夏の空がよこたわっている。

モクモクと横に伸びていく真っ白い入道雲のうえに、いつか見た蒼い山脈がそびえているかのような錯覚を覚えながら、わずかな高揚感と共にいつもの稜線のうえをゆっくりと走る。

小屋へむかう道には、いつもどこかに、なんてことのない小さな小さな山がある。

コア

いつもよりセミの声が大きいから、イヤフォンの中の些細な音はそれらにかき消され、重いウッドベースの音と甲高いサックスの音がミーンミーンと繰り返される通奏低音をつんざいて、唐突に目の前をかすめる。

たまたまメラミンコアという素材のことを考えながら街を歩いていたら、ふつうの扉に「コア」という2文字がくっきりと黒い文字で書かれた表札を見かけて可笑しくなった。「論理の核としての思想のきらめく稜線だけを取り出してみせる。」大昔に読んだ芥川の言葉がからからと音をたてて頭の中を転がっていく。今日の小屋にはヤモリはいなかった。

既にそこにいるもの

トントン、トントン。

ノックをしてもシャッターの向こうには何かが動く気配はない。留守かなあ。でも今日は到着がいつもより遅い時間になってしまったから、もう外は暑いしなあ。小屋の外ではセミたちが大きな声をはりあげている。

トントン、トントン。
もう一度慎重にシャッターをノックしてから、それからゆっくりと静かにそれを上へと開けていくと、やっぱり今日も。内側の網戸のところで右往左往するいつものヤモリがひとり。

網戸の下枠のところを右に行き、左に行き、結局ど真ん中にやってきて、ごめんごめんと謝るこちらの声にまたしても右往左往。こっちも見かねて右往左往。しばらくあたふたしてから、それから彼が網戸の端のほうへと移動したのを見て、驚かさないようにそーっと網戸をあける。

この小屋の偉大な先輩との毎朝の寸劇は光栄ではあるけれど、このくだり、そろそろなんとかうまく話し合って折り合いをつけたいような気もする。忘れてたと言わんばかりの大きな「チュン」の鳴き声が、小屋に入ってからしばらく経ったのち、ようやく窓の外から聞こえた。