水平線

水平線のむこうにオオシラビソのようなものがぼーっと立っていて、生暖かい風にのって流れていく霧の奥にちらちらと霞む。なんだか時間の停止した砂浜にいるような感じがして、芥川の「蜃気楼」をふと読み返してみたくなった。

ソローの池

流れのない静かな水面の上に綺麗な正円がいくつも浮かんでいる。

見渡す限り、そこにはひとつとして同じ色は無く、ひとつとして同じ大きさのものはない。円はそれ自体が単独で完結した幾何学形態だから、ここにはたくさんの自律したもののかたちが浮かんでいるようにも見える。

でもよく見ると、それぞれの円には中心から周縁へとこまかな線や切れ込みが入っていて、その向きによってそれぞれに固有の方向性が生まれている。それぞれの円はてんでばらばらの方向をむいて浮かんでいるし、円と円の離れ方、重なり方には、どこにも恣意的なものがなく、意図もなく偶然にその場に葉を開いているだけのようにも思える。

にもかかわらず、ここには何らかのまとまり、それぞれが自律したものたちの恣意的でない関係性がつくるまとまりがあって、思わずそのさまに何かの意味を見いだしてしまいそうにもなるのだけれど、ひとがそこにどんな意味を見ようとも、円は円のまま素知らぬ顔ですいすいとそこに浮かんでいて、そのことに小さな安堵を覚える。

複雑に組織化されていく社会を横目に森の生活をつづけながら、朝から晩まで、ソローがひとり覗きこんでいたという池の水面には、こんな円が浮かんでいたりはしたのだろうか。そんなことを、とりとめもなく考えてみたりもした。

陽の傾き

この時期の光は、一瞬一瞬であまりにも刻々とその様相を変える。傾いていく陽の光は、普段の街の雑踏の中にたくさんの見知らぬ模様を浮かびあがらせて、次の瞬間にはもうその模様を泡のように消し去って流れていく。

目の前にある平凡な場所にはきっと数えきれないほどの無数の一瞬があって、ひとはその一瞬をいつも見逃しながら過ごしているのだということを、その傾きの速度はさりげなくひとに知らせる。

乾いたかたち

モノには、あるいはモノのかたちや幾何学には、それぞれに異なった湿度のようなものがあるのかもしれない。湿ったかたち。乾いたかたち。

湿ったかたちがどこか生命のような有機的なものの存在を思わせるとしたら、乾いたかたちが映し出しているものとはなんだろう。山の奥で乾ききったかたちのまま立ち尽くすもの。海辺の乾いた砂の上に置き去られたもの。

夏の雨の日。霧のむこうで立ち枯れていた1本の木のかたちに憧れにも似た不思議な感情を覚えたことがあった。幻想のごとく漂う霧の中、その木のかたちだけが、なんだかとても醒めていた。

秋の穂

いつもの道すがら。誰もいない昼下がりの公園で、秋の空気をすいこんだ光の色の小さな穂が、ひと知れず眩しく風に揺れていた。

均整

古びた建築を見ているとき、その建物や空間に宿されている比例や均整のようなものに唐突な共感や不可思議な懐かしさを覚えることがある。

比例や均整というものは、その建物の「構え」や「重心」を決定づけるものであり、その建物をつくった誰か、描いた誰かの身体感覚であったり世界との距離感(世界の中での自分自身の理想の立ち方)であったりを反映したものでもあるのだろうなと感じる。

いつかの時代の名前も知らない誰かと、そこから遠く隔たった場所にいる自分とが、そこに遺された建物の比例や各部の寸法の均整によって結びつけられること。

寸法というただの数字の存在が、いくつかの時代や場所を飛び越えて、遠くの誰かの身体の底をかすかに揺さぶる可能性があるということが、建築が遺っていくことの意味であり、図面の中に線と数字を書き連ねていくことの面白さでもあるのかもしれない。そこにはきっと、幾何学というものの影が霧のように漂っているのだろう。

夏の終わりのある朝、山の麓の小さな建築を見上げながらそんなことを少しだけ、考えた。

風景に

この風景みたいになりたい。
と思えるような風景をいつか自分の足で見つけられたならば、きっと素晴らしい。できればその風景は、静かでありふれていて飾り気のないものが良いなと思う。

小さな峠

古い神社の脇から植林された杉林の中に入って、早朝、まったくひとの気配のない道をてくてくとのぼる。

その途中でふと脇道にそれて、ほとんど名前の知られていない小さな小さな山に寄ってみる。胸の高さほどまで茂った笹に晩夏の匂いがたちこめて、その合間にひとの通った痕跡がかすかに見える。

誰もいない。誰かがいた痕跡もあまりよく見えなくなってしまっているような小さな山の頂には、
一面の笹の海。蝉の声。

左から右、右から左へと張り巡らされた繊細な蜘蛛の糸を壊さぬように、その下をそーっとかがみながら通りぬけ、明るい稜線の道に出ると、小さな峠にひとつだけ、むらさき色の花が咲いていた。

町家の井戸

以前行った、ある古い町家の片隅。
深い光の井戸の底にゴロンと置かれた象徴的な木の桶。

小さなひとつの住居とそこでの生活が、それを取り巻く都市や街の時空の中にどのように埋め込まれたものであったのかを示唆するような、目に見えない空想の力に溢れた場所だった。

この住居に暮らした人が、どのように自分を取り巻く世界と対峙していたのかということが、住居そのものの空間的な構えにあられているような感じがした。

対象の遠さ

たとえばある山を歩いたとして、その山のことを自分の中で理解したり、誰かに話したり、伝えたりすることが出来るのは、その山を歩いた日からずいぶん時が経った後のことだったりする。

ある本を読んだとして、その本の意味が自分の中で噛み砕かれて溶け出すのには、少なからずある程度の年月を要するし、ある図面を描いたとして、そこで描きたかったことの内容をふと実感することが出来るのは、それを描いた日から遠く離れた時であることが多い。

ある対象を、自分がその対象の目の前にいる時に、きちんと理解するのは難しい。
その対象の意味は、そこから遠ざかった時にはじめてぼんやりと浮かびあがってくる。

だから写真であれ描画であれ文章であれ、まずは自分の目の前にあるその対象を淡々と記録することに価値があるのだと思う。その記録を遠く離れた日に発見した時、そこではじめて生まれてくるものがあるのだと思う。

そのために、まずしなければならないことは、たぶん、動くこと、行動すること。対象の前に立つこと。それを見ること。静かに見上げること。記録すること。そして、そうしたことを続けること。
今日、そんなことを思った。

ひかりを写すひと

見るたびに「ああ。このひとはきっと光を見ているひとなんだなあ。光だけを見ていたいひとなんだなあ。」と思う写真がある。ただそのことだけが自分に伝わってくる。どの写真もさーっと澄んでいて、静かな眩しさがある。いつまでも見ていることが出来そうに思う。

影がないと光は写らない、光は影によってかたちを得るものだとばかり思っていたのだが、その写真では影は光の背後に消えている。写真の明度自体は高いわけではないから、勿論ちゃんと影は写っている。でもその写真の中では、影によって光がかたちを与えられているのではなく、それを撮るひとの視線はまっすぐに光のほうだけを向いている。カメラの後ろにいるひとは影の中から澄んだ光だけを見あげて、そっちに向かっていこうとする。

まるで植物のようだなと思う。

夏の雲

カレンダーの上では8月はまもなく終わるけれど、
今年の夏はまだまだどこまでも続いていくような感じもする。

夕闇の頃、橋の上に大きな雲がしずかに水を滴らせながら昇った。
右のほうには、きれいな真ん丸をした白い月がとろんと浮かんでいた。

更新

少し前ですが、ホームページの「市原の家」と「自由帳」のページを更新しました。「市原の家」のページは、今まで載せていなかった小さな写真などをたくさん追加してみました。

「自由帳」は、しばらく更新を出来ていなかったのですが、ページのレイアウトや内容を完全に変えました。自分の手で描いたものや建築について思うことを、金田幸三さんの写真と、自分の図面と文章とで、つらつらと気軽な気持ちで書いていきたいと思っています。これから、こまめに更新していく予定です。

ページレイアウトの更新にあたっては今回も、このホームページをつくってくれた大田暁雄さんにお世話になりました。金田さん、大田さん、いつもありがとうございます。

郵便

遠方のある人とお電話をしていて、あるもののことを「もう届きました?」とお聞きした時、「郵便屋さんは毎日かならず○○時にうちに来るからさあ。その時間になったら持ってきてくれると思うんだよね。」とその人が言った。

それってすごく当たり前のことなのかもしれないけれど、その時の自分には、それがとても羨ましいことに思えた。その人と郵便屋さんとの関係、それからその関係を成り立たせているその町の空気、時間の感覚。

「郵便」という言葉が、空間から空間へと淡々とモノが転送されていく制度のことではなく、それを黙々と運ぶひとの存在を思い起こさせるものであるような、そんなおおらかな感覚のことを思った。

写真は、以前行ったある古い郵便局の建物。
郵便局の受付の空間って、なんだか良い。窓口の向こうに郵便をささえるひとが見える。そのひとに「宜しくお願いします」と言って郵便物を渡すひとがいる。自分も、遠くの誰かに郵便を出してみたくなる。

ひかりの角度

夕方、事務所のロールスクリーンの布地の上をゆらゆらと移ろっていた光。
斜めのラインがすーっと通り、やわらかな濃淡があって、きれいだった。

あたりまえのことだけれども、少なくとも自分が暮らしている場所では、いつも光は斜めから射してくるし、そうした斜めの光に呼応して屋根がつくられ、窓があけられて、ひとの暮らしが営まれてきた。

地球のどこかには光がまったくの垂直や水平に降り注ぎつづける光景もあるのかもしれないけれど、たぶんそれは自分にとってはとてつもない非日常の体験になるのだろう。山のうえで見る朝日や海のなかで見る夕日に感動を覚えるのは、その角度が水平に近づく一瞬があるからでもあるのだと思う。

もしまったくの垂直や水平の角度を保ったままひとを照らしつづける光があるとしたら、たぶんそこには自然の生あたたかさのようなものはなく、自分のような人間はそこで生きていくことは出来ないのかもしれないけれど、でもやはりそれは、ずっと見ていたいような光景でもあるのだろうなあと思った。

線をひくこと

抑制されたものに、いつも静かな共感と憧れを覚えながら過ごしてきた。
何かがそっと抑えこまれたもの。何かがさっと消し去られたもの。そのようなひと。そのような言葉。そのような表現。

いつだったか、建築の図面というもの、それも手描きの図面というものにはじめて出会ったとき、これなら、この中でなら、自分にも少しばかりはなにかを言えるかもしれないなと思った。

図面は、たとえそこにどんなたくさんの感情をこめて描いたとしても、出来あがったものは単なる1枚の紙の上の無機質な鉛色の線と数字の羅列でしかないところが良い。

その図面の中に、それを手にする誰かに伝えてみたいことをどれほど叩きこんだとしても、その人の前では「でも、これはただの図面なので…」とそ知らぬ顔でうそぶけそうなところも良い。

それから、それを描いた人間の存在がくりかえされる線や数字の背後にサーッと消え失せて、人称のない淡々とした手の動きの痕跡だけがぼんやりとそこに漂うような感じも良い。

たとえばもし、その家を美しいものにしたいと強く望んだとしても、図面の中に「この家を美しくして下さい!」と書くことはできないし、その図面を美しい色で彩ることもできない。それを淡白な鉛色の線と数字と記号だけであらわすのが、自分の仕事なのだと思う。

0.5ミリのシャーペンでひく線は、その時の自分の状態をあまりにも繊細に写しとってしまうものだから、感情が揺らいだり、前のめりになったりしていると、とたんに線が揺れ、濃度が変わり、太さが曖昧になって、図面の中に不必要な濃淡が生まれてしまう。
同じ濃さの、同じ太さの無機質な線を紙の上にきれいにひくのは、ビックリするほど難しい…。

だから図面を描くとき自分にできることといえば、製図板にむかって肩の力を抜き、息をとめ、感情を殺し、声を潜めて、まっすぐな鉛色の線をただ淡々と引いていくことくらいしかない。

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【掲載のおしらせ】

8/19発売の住宅建築』10月号に「勝浦の家」「一宮の家」「市原の家」を計10ページほど掲載していただいています。

家をささえる小さなものたちと、その図面についての特集です。写真は古くからの友人・金田幸三さん。施工は木組さん。家をつくってくれる大工さんに手渡すために、1/6の縮尺でその家の全貌を追いかけた手描き図面たちをメインに、机の上で自分の手を動かす中で実感したことを書いたささやかな文章なども載せていただきました。

もしどこかで見かけるようなことがあれば、通りすがりにチラリと一瞥していただけたらうれしいです。

小さな夏

開け放たれた窓から見える広々とした青空と入道雲の風景に夏の気配があるのは当たり前のことだけれど、時には暑さのあまり閉ざされた部屋の中にふとした隙間から差し込んでくる小さな光から夏の気配が静かに零れ落ちてくるようなこともある。

どこか遠くへ行くことが制限され続けることで逆説的に生き生きとした遠くを想像することがあるように、たったひとつの調味料で味付けされた食べ物がさまざまな味覚を呼び覚ますことがあるように、抑えこまれ、絞りこまれたものだけが伝えることのできる何かがあったりもするように思う。

消えていくもののかたち

ひとけのない小さな里山を歩いていると、細い道すじや踏み跡が植物たちに覆いつくされ、消えていこうとしているところに出くわすことがある。

ひとがつくった道や痕跡が、その人工物としての明快さや明瞭さを失い、植物たちのなかに溶けて、どこか遠いむかしの状態に還ろうとしているかのような風景。

そこには、その人工物を消していこうとする「時間」や「自然」の存在がぼんやりと不明瞭な状態のまま可視化されているようなところがあって、美しいなと思う。なにかの痕跡が消えていくところに、それでもまだなお存在する「かたち」があるとしたら、それはどんなものだろう。

トタン板

「『この屍、どうにも手に負えなんだのう』トタン板をかいて来た先棒の兵がそう云うと『わしらは、国家のない国に生まれたかったのう』と相棒が言った。僕がこの場で聞いた人間の声は、トタンかきの2人の兵が交したこの言葉だけである。」

古いノートに書きつけてある『黒い雨』の一文が、今日たまたま目に入った。幼い頃、教科書かなにかではじめて鱒二のその小説を読んだ後、湯船につかりながらその静けさをぼんやりと想像してみたことを、ふいに思い出した。

山の道をつくった人

山に道があるから、そこを歩く人は花や木を見ることができる。山に道があるから、ひとは風景を自分の足で見つけることができる。道が、そこを歩くひとに道ばたの花や木の素朴な価値を伝える。

たった1本の道が、何千もの風景をうみだす。
たった1本の道が、ひとをどこか遠くの場所へと連れだす。

その1本の道をつくるために、たくさんの思いや生活が注ぎ込まれる。いくつもの手がその場所の土を突き固める。谷に木を渡し、石をならべる。それからその道の上を数えきれないほどの足が歩いていく。たくさんのひとがその道の跡を辿っていく。

その過程で、長い時間のなかで、その道をつくったひとの存在や思いはたくさんの踏み跡の背後にすーっと消えていき、ついには道そのものの存在さえもゆっくりと消えていって、風景だけがそこに残される。

細く長くのびていく山の道を歩いて、その道をつくったひとのことを考えた日があった。目の前につづいていく踏み跡の、その奥深くに消えたもののこと。この道をつくったひとたちのように、建築をつくっていけたらなあと思った。