遠いところ

「てっぺんへ出ると、私は素晴らしく大きくなった。山のように大きくなった。」

今にも押しつぶされてしまいそうなほどに重たい日々の暮らしを、淡々と短い言葉で刻みつづけたある古い女性の詩人の、その言葉の片隅に、ほんの時たまふわっと幻のようにたちあらわれてくる山のイメージは、たぶんそのひとの過ごした低い低い毎日の、その低さのぶんだけ高くて大きなものになるのだろう、

自転車に乗って小屋に来る道すがら、そんなことを茫々と考えた。

そのひとの詩のなかに存在する山は、地べたを這うような凡庸な毎日があってこその山なのであって、そのような日々のないところに、きっとあの山はないのだ。

雨に濡れたずぶずぶの土の道がおわって、木道がはじまるところ。その両脇に大きな木が同じような高さで門のように聳えたっていた。いま久しぶりに写真で見てみると、そのふたつの木の間に見えない境界がぴーんと張られているみたいな感じがする。道よりも土よりも、誰よりもその2本の木が、瑞々しい。

白樺

冬のおわり頃、ふかふかの落ち葉とカラマツの斜面をぬけた先に、ぽつんと立っていた1本の白樺。その一帯だけ、ぽわんとほのかな明るさがまたたいて、そこにはない真っ白な雪が周囲の木々の足元に浮かんでくるかのようだった。

ある話

「これは、ちょっとした心づかいみたいな塗料なんです。」

もうだいたいその日の話も終わりにさしかかるころ、大きなカバンの中から取り出した1枚の紙をちょこんと机に置いて、そのひとはそんなことを言った。

「これは垂木とか板材とか、そういった木材の小口を水分から保護して割れにくくするための塗料なんです。他の塗料に比べて、水に対する耐久性が2倍くらいあって。でも木材の小口なんてたいした面積があるわけじゃないから、だからこれを塗ったからといって目に見えて何かが違うとか、そういうものってわけではなくて。

たとえば工務店さんや塗装屋さんがこの塗料を1缶持っていて、特に誰かが頼んだわけではないけれど、木材の小口にひと知れずさっとこの塗料を塗ってくれる。そうすると、ほんのわずかなことだけどなにか違うような気がするね、なにか割れにくいような気がするねっていう、そういうちょっとした心づかいのような塗料だと自分では思っているんです。」

話を聞いた瞬間、ぱーっと目の前に浮かぶ職人さんの背中がある。あーきっと、あの塗装屋さんだったら、何にも言わなくてもこの塗料を現場に持ってきて、それでさらっと塗ってくれたりするんだろうなあ。そんでそれを見ていた大工さんは、塗装屋さんが帰ったあとで、「やっぱあの塗装屋は良い塗装屋だよ。」ってボソッと言ったりするんだろうな。

いま目の前で塗料の話をしてくれているひとと、きっと今はどこかの現場にいてせっせと塗料を塗っているのであろう塗装屋さんとを、なにか小さなかたちでも繋ぎあわせることができたらなあ、とふと思う。
もう何年も前からずっとお世話になっているそのひとが、その日、電車を乗り継いで、この場所に塗料やその他もろもろのことの話をしに来てくれているということ自体の中に、何かちょっとした心づかいのようなものがあるのだということが、自分にはなんとなく分かるような気もする。

そういうことのすべては、やっぱり全部気のせいなのかもしれないけれど、でも自分のおもう建築って、なんだかそういうものなのではなかったっけ。。

目に見えて何かが変わるわけではない、誰に頼まれたわけでもない、でももしかしたら少しだけ何かが違うかもしれない、ちょっとした心づかいのようななにか。道ばたのあちこちに咲いているサルスベリの花を目の隅で眺めながら、小屋からの帰り道、自転車のペダルをぐいぐい踏んだ。

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たとえばいま、すぐそこに、なんてことのない一本の線があるとして、その線の片側にはそれを最初に描いた誰かがいて、もう一方の片側にはこれからその線をたどっていこうとする誰かがいる。一本の線は気まぐれにその両者をむすびつけたり、繋ぎあわせたり、時にはあっさりとその関係を切断してしまったりもしながら、悠々と静かにむこうのほうへとのびていく。

その一本の線のあとを追いかけているうちに、ついうっかりうたた寝をし、ふと起きて、寝ぼけた目でもう一度その線を眺めてみる。すると、さっきまで見えていたひとの姿はすっかりどこかに消え失せて、目の前の線は単なるただの線にしか見えず、その線のまわりには誰もいないガランとした空間がひろがっているように思えてくる。線は結局のところただの線でしかない。多くの醒めた目にとって、そうであるように。

けれどもそこでもう一度目をこすり、その線のこちら側やあちら側にいるのかもしれない誰かの存在を想像してみることをやめずにつづけることができたら、それはそれでひとつのちっぽけな意思のようなものの表明くらいにはなり得るんじゃないかと、そんなことを思い浮かべてみたりすることが時たまあります。

・・・

「どんな本でも良いので、本棚から好きな本を選んで書評を書いていただけませんか。」

新緑がみずみずしく山の斜面をおおって、あちこちでヤマブキの花が咲いていた春の頃、そんなうれしいお声がけをいただいて、それからゆっくり時間をかけて小さな文章をひとつ書きました。きのう発売になった『住宅建築10月号—山から住まいへ』の巻末に、ちょこんと掲載していただいています。

なにかを「評」するなんて、そんなたいそうなこと、自分なんぞには到底できるわけもないだろうと考えて、土に近いどこかとても低い場所から山の上の木をまっすぐに見上げるような気持ちで、自分が憧れつづけてきたもののことを書きました。『線をたどる』というタイトルの見開き2ページ弱ほどの小さな原稿です。もしも本屋さんでたまたま見かけたりすることがあれば、ちらりと一瞥いただけたらうれしいです。

笹の尾根

目の端でなにかが揺れて、ちっちゃな影が額のあたりをちりりちりりと動く。
変わり映えのないなだらかな尾根道の、あれはいったいどのあたりだったっけ。ちりりちりりと揺らいでいるものの隙間から、小さなシジュウカラが懸命に枝を蹴って飛んでいく。なんてことのない山頂からまた次のありふれた山頂へ、揺れずに立っているものと、揺れながら光っているものの間を、ただ淡々とまっすぐに道が縫っていて、乾いた笹の葉がじんわりと太陽に焼かれていた。

谷底の蛍

暗い谷に時たま何かの拍子にうまい具合に光が射しこむと、細い枝や枯れ木や雑草や、そうしたなんてことのない平凡なものが、それ自体の内側からじんわりと光っているように見えるときがある。まるで山にかくれた小さな蛍の群れのように。この日の谷ではほっそりとした枝の群れがチラチラと蒼っぽい光を放ちながら、沢の左右を跳ねるように飛びまわって遊んでいた。

坂道

小屋にむかう道の途中に、両側に斜面が落ちたちょっと小高い丘のようなところを走る道があって、その稜線の上を今日もまっすぐに自転車を走らせる。

少し前にざーっと降った雨はすぐにやんで、ギラギラとした夏空のむこうにさっきまでの雨雲のかたまりが流れていく。

稜線の上から左の坂道のほうを見下ろすと、白い帽子をかぶった女の人が自転車を漕いで坂道をおりていく。その後ろ姿のむこうにガランとした学校のグラウンドが広がって、その先にひらけた視界の中に大きな夏の空がよこたわっている。

モクモクと横に伸びていく真っ白い入道雲のうえに、いつか見た蒼い山脈がそびえているかのような錯覚を覚えながら、わずかな高揚感と共にいつもの稜線のうえをゆっくりと走る。

小屋へむかう道には、いつもどこかに、なんてことのない小さな小さな山がある。

コア

いつもよりセミの声が大きいから、イヤフォンの中の些細な音はそれらにかき消され、重いウッドベースの音と甲高いサックスの音がミーンミーンと繰り返される通奏低音をつんざいて、唐突に目の前をかすめる。

たまたまメラミンコアという素材のことを考えながら街を歩いていたら、ふつうの扉に「コア」という2文字がくっきりと黒い文字で書かれた表札を見かけて可笑しくなった。「論理の核としての思想のきらめく稜線だけを取り出してみせる。」大昔に読んだ芥川の言葉がからからと音をたてて頭の中を転がっていく。今日の小屋にはヤモリはいなかった。

既にそこにいるもの

トントン、トントン。

ノックをしてもシャッターの向こうには何かが動く気配はない。留守かなあ。でも今日は到着がいつもより遅い時間になってしまったから、もう外は暑いしなあ。小屋の外ではセミたちが大きな声をはりあげている。

トントン、トントン。
もう一度慎重にシャッターをノックしてから、それからゆっくりと静かにそれを上へと開けていくと、やっぱり今日も。内側の網戸のところで右往左往するいつものヤモリがひとり。

網戸の下枠のところを右に行き、左に行き、結局ど真ん中にやってきて、ごめんごめんと謝るこちらの声にまたしても右往左往。こっちも見かねて右往左往。しばらくあたふたしてから、それから彼が網戸の端のほうへと移動したのを見て、驚かさないようにそーっと網戸をあける。

この小屋の偉大な先輩との毎朝の寸劇は光栄ではあるけれど、このくだり、そろそろなんとかうまく話し合って折り合いをつけたいような気もする。忘れてたと言わんばかりの大きな「チュン」の鳴き声が、小屋に入ってからしばらく経ったのち、ようやく窓の外から聞こえた。

西瓜糖の日々

あるお店にこの夏入ってきたスイカはいつもの年よりも大きくて、1玉で13kgくらいの重みがあるのだとか。ひとがひとり、テントと水と食料を背負って3日ほど山を歩く時に背負うザックの重量がだいたいそのくらいだから、ひとが3日生きることの重みは1玉のスイカのそれと同じだと言えるのかもしれない。

「ひとの3日間は1玉のスイカにも若かない。」

灼熱の坂道をゆっくりと自転車でくだって小屋へと向かい、今日こそはヤモリを驚かせないようにしなければと手のひらで何度かシャッターをノックしてから、そろりそろりとそれをあけると、むせかえるような夏が小屋の中からあふれだした。

あっという間に夏が来て、入道雲の隙間から太陽がまぶしい。

すっかり収穫が終わって一面の野原になったトウモロコシ畑を横目に小屋に来て、それからシャッターを一気に上まであけると、その裏の古い網戸のうえで休んでいたいつものヤモリがびっくり仰天。大慌てで近くのクモの巣の中に突撃していく。その小さな背中に何度もお詫びを言ってからガラリと網戸をあけると、そのさまを枝の上から見ていた一羽のスズメが、短くチュンと鳴いた。

尖塔

瓦葺きの日本家屋や、曲がりくねった松の木や、ピカピカのモダンな建築や、モクモクと明るい入道雲や、ツルっとした案内板や、ガラス張りのエントランスや、ひなびた縁側の物干し竿や、ごうごうと音をたてる室外機や、だだっ広い駐車場や。そういったものたちに囲まれながら、一本の古い尖塔がどこか居心地悪そうに、じっと空に隠れるようにして立っていた。

「すぐれた表現はすべて自己懐疑的である。」
いつどこで見た言葉だったのか、そもそもこんな言葉だったのか、まったくもってさっぱり思い出せないひとつの言葉がぽわんと目の前に浮かんで、むこうの空をつんざいた。

夏めいた朝

小屋にむかう1時間ほどの自転車の道の、真ん中をすこし過ぎたあたりに、大きな農園と古い木造の民家があって、その農園の片隅に鉄管パイプで建てられた小さな東屋のような場所がある。

そこでは農園のひとがカゴに入れた野菜を売っていて、そのひとたちの日焼けした顔とうつむき加減の背中を忠実になぞるかのように、鉄管パイプの東屋は地を這うように低く構え、その下のひとがようやく立てるほどの高さの空間に、涼しげな黒い影を生みだしている。

今朝、しばらく降りつづいた雨が終わって一気に夏めいた空の下を抜けて、いつものように東屋の前を通りかかると、珍しく東屋には誰もおらず、しーんとした暗がりのなかに「雨の日はお休みです」と赤いマジックで書かれた小さな紙が貼られているのが見えた。

「雨の日はお休みです。」

その言葉のなんだか良い感じの響きを頭のなかで何遍もくり返しているうちに、自転車の道は次の農園を通りすぎ、ギラギラと太陽の照りつける一面のトウモロコシ畑の角を曲がって、それから古い材木屋さんの前へと差し掛かる。ざらりとした黄土色の土壁が塗られた小さな蔵の前では、夏の日射しの下で白いタオルを頭に巻いたひとが、目の前の木と格闘をくりひろげている。

小屋について自転車を停めて、それから窓を開け放つと、すぐ外の農園で元気に飛びまわるスズメたちの鳴き声の背後から、「ああ。。野菜がいっぱいしおれている。。」と呟く小さな声が漏れてくる。その溜息に鳥たちの声が重なって、やがてそれは晴れやかな笑い声にかわった。

セミ

この前の雨あがりの夜、今年はじめて聞いたセミの声はそのあとパッタリと聞こえなくなった。みんな、目の前に迫った満開の夏の訪れを、地面のなかで一緒に待ち構えているのだろうか。

近所の若い三毛猫はステンレスのポストのうえにペターっと腹一面をくっつけて、蒸し蒸しとした夕方の街に可笑しな顔を浮かべて呆けていた。このところの雨は遠い日の湿原を思わせるものなのか、ベランダの食虫植物から次々に新芽が生えてくる。

小屋のところでは軒下で雨宿りをしていた二羽の鳩がちょっとだけ気まずそうにこちらを見る。古いシャッターをガラガラと開けると、ひとりのヤモリが大慌てで軒裏へと駆けだしていった。

河原

何年か前のちょうど今頃の、雨あがりの河原のみち。

踏み跡

自分の歩いた跡もこのくらいのものであったら良いなあ、となんだかそんなことを思わせてくれるような小さな道、かすかな線。いつだったか、まだ新緑の芽吹く前のしずかな山で。

クリーニング屋さん

この1ヵ月ほどの間、毎日のように自転車で通るようになった新しい道の途中に、一軒の小さなクリーニング屋さんがある。そこは鉄道の駅からは離れ、下り坂と下り坂とが出会う住宅街の谷のようなところで、まわりには数軒の古い小さなお店が並ぶようにたっていて、どことなく慎ましい雰囲気が醸し出されている。

行きに通るときは、だいたいの場合そこにクリーニング屋さんがあることにも気づかずに通り過ぎてしまい、そのお店がそこにあることを認識するのは帰り道、暮れていく空を眺めながら自転車でのんびりとくだっていく坂道の左手にそのクリーニング屋さんが見えてきた時だ。

ゆるやかにブレーキをかけた自転車でその前を通るとき、お店に入ったことも、利用させていただいたこともないクリーニング屋さんの引き戸が開け放たれ、その引き戸のすぐうしろ、お店に入ってすぐのところに、小さな遺影が机のうえにちょこんと置かれているのがチラリと目に入る。

最初はほんのひとときそこに置いてあるだけなのかなと思ったその遺影は、はじめてみた時からまもなく1ヵ月が経とうとする今にいたっても、やはり同じ場所に、丁寧に立てかけられて置かれている。

一度見かけた旦那さんと思われるひとの背中は、やっぱりなんとなく寂しげに見えたようにも思えたのだけれど、でもその遺影がどこか裏手の住居のなかにではなく、そのお店の入ってすぐのその場所に置かれているということに、そのひとのなにかが込められているのかもしれないなと思う。

きっとあのひとは、あのやさしそうな顔を浮かべて、いつもあの場所に立っていたのだろう。ふたりでそのお店を、自分たちだけのお店をはじめて持った日の、溢れるような、張りつめたような気持ちがどことなく偲ばれてくるような感じがして、自転車のうえでほんのわずかの間、目を瞑る。

立ちかた

だれかの背中を見ているような気がした。

木を見ることは立ちかたを学ぶこと。
どんなに小さな木でも、どんなに枯れた木でも。

おなじひと

だいぶ前、冬枯れのやまを沢に沿っててくてくと歩き、前方に小さな分岐が見えた。

右に行くと山頂への急な登り坂、そのまままっすぐ沢をいくと稜線の鞍部にでるなだらかな道。鞍部までの途中には大きなトチの木の生えているところがあるらしく、水とトチの組み合わせにも興味を惹かれたけれど、その日は右に登っていくことに決めていた。前の年にもまったく同じ季節に同じ道をきたのだったが、今年もやっぱり右かなと思って、なんとなく右のほうを見上げながら歩をすすめた。

分岐のところまでやってくると、それまで誰もいなかった山道にはじめて見る背中がひとつ、下を向いて立っている。うしろから小さく挨拶をして背中の横をすりぬけて右のほうへと登りはじめたとき、ふと横に目をやると、そのひとの手のなかに5万分の1の地図がひらかれているのが見えた。

あっ。

このひとは去年もここにいたひとかもしれない。去年もこの分岐のところで、こんなふうに5万分の1の地図をひらいているひとを、見たのだったかもしれない。

思い違いだとは分かっていても、去年そのひとをその場所で見たのかもしれないということを否定することもできないまま、それが本当にあったことなのかどうかはひとまず山の道へと放り出して、おぼろげな記憶を紐解きながら明るい枝の下をくぐってぼんやりと急な坂道を登った。

坂のうえからふと左の沢のほうを見下ろしてみると、ほっそりと白く光る枝たちの隙間から、地図のひとがその地図をひらいたまま、ゆっくりと沢に沿って歩いていくのが見えた。やっぱりきっとあのひとは、去年もあの分岐のところで地図をひらいていたひとだったのだろう。そして去年もまっすぐにあの沢に沿って鞍部へと歩いていったひとなのだろう。なぜだかそう思った。