芹沢の家の記録

芹沢の家の写真をホームページに掲載しました。2021年冬から2023年夏の上棟までの700日あまりの日々のなかの10日間をきりとった記録写真です。

撮影はすべて金田幸三さん。主な撮影場所は那須の建築工房槐さん、大田原の坂本材木店さん、埼玉の深谷配合粘土工業さん、それから芹沢の敷地です。

ものづくりの現場は、ここには写っていない残りの690日間の中で、見えないところで滴りおちた汗や、もらされた溜息や、あるいは写真には写らない場所で地道に身体を動かしつづけてくれた職人さんたちの手の中に、等しく存在していると思っています。

ひかりの加減で写真の裏側に隠れてしまったそうした見えない瞬間のひとつひとつが、ここにある写真の先におぼろげにでも映しだされていたら良いなあと考えながら、金田さんの撮ってくれたたくさんの写真を見つめました。

現場は今週とうとう屋根が出来あがり、ここから先は竹を編み、土を捏ねては投げつけて、家の輪郭となる壁面をつくっていこうとしているところです。

朝。さっきから目の端でちらちら動くものがあるなあと思って、斜面の下をまじまじと見た。むっくりとした黒い塊が、のそのそと斜面を移動していく。。

よく見るとそれは自分の影で、そのことになんだか不意をつかれた感じがした。なんとも冴えない感じのその影は、これからのろのろと稜線に沿って歩いていくところのようだった。登山者のひとたちはまだこのあたりに登ってくる前で、おだやかな風以外には動くものはなんにもなかった。

冬の座り

夜明け前、ざあざあと天幕を打つ音はてっきり雨だと思っていたけれど、いざ外に這い出してみると、黒い雨具の表面を真っ白い雹がぱらぱらと滑っていった。

テントをたたんで山頂を越えて、それから北側の森に入ると、その雹はさらさらとした質感に変わり、しばらくするとしっとりと柔らかな雪になって、沢沿いの道の滝のところにさしかかるころにはあたりは一面の真っ白な雪景色になっていた。

きのうの昼間はあんなにも暖かく晴れていたというのに、冬はもう、その森の小径のところまで歩いてきてしまっていて、なに食わぬ顔をして静かに山に座っていた。

地面の踏みかた

あれほど大事そうにベースを抱えて弾くひとは他には絶対いないと思っていたけれど、何人かの人の背中ごしに5カ月ぶりに見たそのひとは、重たい音を弾くたびにググっと強く左足に力を入れて、足元の地面を踏みしめていた。

あんなにも強く地面を踏みしめたことは今まで一度もないかもなあと思って、演奏を聴いているあいだ、何度か自分でも同じように足元の地面を踏んでみた。地面を強く踏めば踏むほど、その反発で自分の身体がグイッと強く浮き上がる。踏みしめた地面が、何かの力を自分にくれる。

ステージの上のそのひとは、靴底の下にある地面から浮き上がってくるその力をそっくりそのままベースに乗せて、ステージの隅でひとり黙々とその音を鳴らそうとしているのかもしれない。まるで大切なひとの宝物を預かっているかのように大事に大事に抱えられたベースの、そのもっとずーっと下のほうの暗がりで、青いアディダスの靴が何度もわずかに上下に揺れる。

あんなふうに暮らしていけたらなあ、と思った。

池のうえ

夕方、ヒュッテの脇の水場のところまで、水を汲ませてもらいにしばらく池の横の道を歩いて行くと、小屋番さんがぽつねんとひとり、小屋の前のテーブルに寄りかかって山を見上げていた。

「だーれもいないと、さすがに心細いもんでしょ。」

山を見上げる姿勢を崩さないままに、ちょっとはにかみがちな小屋番さんがニヒルにそう言うから、いやいやむしろこれが良いから今日来たのですと言うと、うちは日曜に弱いからねと言って小屋番さんが小さく笑った。今日は小屋泊まりのひとも誰もいなくて、ヒュッテには小屋番さんがひとりらしい。

しばらくよもやま話をさせてもらってからテントのところに戻ると、さっきよりも深い霧がでて、鳥たちも鳴きやんだ無人の池のまわりはすっかり静寂の中に沈んでいた。時たま小さな動物が鳴く以外は、あんまりにもなんの音のしないその晩は、おそろしいくらいぐっすりと眠れる夜で、そのままうとうとと眠っているうちに朝になった。

池の反対側のヒュッテから目覚まし時計の音が聞こえてきて、バンっと強くその時計が止められる音がした。小屋番さんもきっとちょっとだけ寝坊をしていま起きたのだなと思うと、なんだか可笑しい。池のところに溜まっていた霧がだんだんと薄くなってきて、森のほうに流れていく。その霧の中を朝の光が通りぬけていこうとする。光はいま、池のうえにあって、とても誰かの手の届くものではないかのように見えた。

秋の自由

いつのまにやらやってきて、忘れたころに去っていく。なんの合図も、なんの約束もなく、ふらっと一寸やってきて、ふらふらそのまま流れていく。行きつく先も帰りつくあてもない。秋には秋の言い分というものがあるわけだろうけれど、それはどこかの街角の居酒屋に競馬新聞片手にするりとやってきては去っていく千鳥足のおじさんの自由にも、なんとなく似ていなくもない。

雨の椅子

9月の雨の日。だれもいないかと思ったけれど、おんなじ道をおんなじペースで歩いていくひとがひとりいて、そのひとと巻き道のたびに静かに前後しながら、ぬかるんだ道をてくてくと進んだ。

小屋のところでは、くすんだ色をした木製の古い机と椅子が、まだ夏の名残りのあたたかさの残る白い雨にしずしずと打たれていた。晴れた日にはたくさんのひとの賑やかな声で溢れているのであろうその古い木の家具たちには、その日は誰も座っていない。あたりは雨の音でしーんとして、なんだかどこか教会のようだった。

うそ

歩いていくと、嘘がすくないなと思う。
このあたりには、見せかけの飾りやもっともらしい誘い文句がすくないなと思う。

けれども、わからない。草は草にしかない方法でさらりと身軽に虫たちをあざむいているのかもしれないし、木は木にしかない方法で鳥たちを誘いだしているのかもしれない。

けれども、なんにも知らないにんげんは、その草の上を呑気にてくてく歩いていって、水がしずかに流れたり、風がざわざわと通ったりするたびに、ああ、なんだかこのあたりは、嘘がすくないなと思う。

暮らし

持たないこと。工夫をすること。見上げること。

未踏の岩壁を登攀したり、誰も見たことすらない渓を遡行したり。そのような場所を自分の足で踏んでいくことに情熱を燃やしたひとたちの文章を読んでいると、素直に心から憧れる。ほんとうにすごいと思う。

では自分はどうだろうと考えると、自分自身はそんな道を辿る技術も経験も勿論まったくもってないけれど、自分にとってのそれは、たとえば多くのひとが見過ごしてしまう静かな山の脇道や、忘れられた古い小径や、誰もいない小さな岩の連なりだったりもするのかもしれない。

それってなんだか、建築について思うこととおんなじだなと思う。自分がやりたい仕事とおんなじだなと思う。つくりたい建築は、自分の歩きたい道に、いつまでたってもやっぱりとてもよく似ているから、だからこんな地味な道を懲りずに何度も歩いてみたいと思うのだろうか。

、、、などということを考える暇なんて勿論ないくらい、バテバテになりながらブツブツひとりごとを言いつつ登った岩の連なりの上からの、その日歩いた静かな稜線。

地面

いろんな色があって、ひとに踏まれた気配があって、ちょっとだけ秋がある。

はやい雲

東京があんまりにも暑かった8月のある日、自宅の部屋とは20℃くらい気温が違うであろう山の上の涼しいテントの中で、眠りすぎて寝坊をした。

池のところに行くと、頭の赤いきれいな鳥が2羽、せっせと何かをついばんでいた。きのうはそこにリスがいて、夜には鹿が何度か鳴いた。小屋のひとは結局その日は来なかったから、峠のほうで激しく吹いている風の音をのぞけば、とても静かな夜だった。

テントをたたんで、峠にむかってとぼとぼ登っていくと、昨夜のテント場で一緒だったひとが引き返して戻ってくる。森林限界を抜けると今朝は強風がすごいから、今日は潔く目当ての山を諦めるという。「これで2度目の撤退」と言って、すがすがしい顔でそのひとは池のほうへと早足で下っていった。

峠にでて、それから森林限界をぬけない道を歩いて風裏を行く。途中ですれ違って話をしたおじさんは「今年の山小屋の値段は、ほんとに暴騰だよなあー」とかなんとか、しきりに愚痴を言いながら、テントを背負った背中はうきうきと楽しそうだ。今日は前に来た時のリベンジなのだという。帽子につけたオニヤンマくんがルンルンと風にゆれている。

ふたつほどピークを越して、それからもうひと登り、赤石のまじったガラガラの急坂を登っていったところの山頂で、この日すれ違ったひとたちとは、すこし感じのちがうほっそりした年配のご夫婦が、ゆっくりとした足取りでむこうから歩いてくるのが見えた。

山頂は樹林帯の中だから、そこから少し外れたところの見晴らし場まで一足先に行ってみる。誰もいない見晴らし場はものすごい暴風で、一面のガスが真っ白にたちこめて、眺望はまるでない。雲が、とてもはやく流れている。

しばらく待ってみようかと岩の上に身をかがめて座っていると、先ほどのご夫婦が樹林帯の出口のところから出てきて、強風とガスの中に立っている。なにかをしゃべっているけれど、風の音でこちらには何も聞こえないし、その姿もガスのむこうに霞んでいる。雲が行ってしまうまで何か食べ物を食べていようかなあと思ってもぞもぞとザックの中をのぞきこんでいると、ぐおーーっとさらに強い風が吹いてきた。

「晴れた!!」

雲と風をつんざいで奥さんの明るい声が響いてきて、顔をあげると一面の、見事な蒼い山々だった。

真夏の三角

前に来たときはまだ雪がのこっている頃だったから、7月も終わりに近づく真夏日に見る三角形のあの山は、きっとモクモクの入道雲の下だろうと決めこんで、地味な急坂をせっせと登った。

樹林帯をぬけだして、ぱっと視界がひらけたとき、むこうの三角は流れる雲の中にかくれて姿を消していた。休むような場所があるわけではないから、その場に立ったまま水を飲んだり食べ物を食べたりしてモゾモゾしていると、ごうごう吹く風の中からほんの一瞬、三角が顔をだした。分厚い雲がきれて、薄くて蒼い霧のようなものになり、三角のまわりをおおって、そのうえに青空が浮かんだ。

あっ。と思う間もなく薄い雲はふたたび分厚さを増して、白のなかに三角を消し去った。なにかを考えたり、見えたものを言葉に置き換えたりする暇なんてないくらいの、わずかな時間。けれどあれは、なんだかなつかしい時間だった。

するすると流れたり。くるんと巻いて漂ったり。
ぽっ。と小さく火のついた線香の煙のような。
どこかへ向かっているかのようで、どこにも向かっていないかのような。

確からしさのなさ

トレーシングペーパーに描いた図面は、たしかに自分自身の右手右指が描いた線だから、それはそれなりにひとまずは確からしい。

けれどその線は薄くて透明でつるつるとした紙にシャープペンシルで描いたものだから、ほかの紙と重ねてしばらく置いておくうちに、紙と紙がこすれて段々と薄くなる。描いた当初はキリっとシャープだったはずの鉛の線は、他の紙に押しつけられたり、流されたりしているうちに、いつしかぼうっと曖昧になる。はっきりとしていたはずのものが、はっきりとしなくなる。確かだったはずのものが、ゆっくりとどこかに遠のいていく。

確からしさを持っていたはずのものが1枚の紙の上でどこかに紛れて消えていこうとするときの感じは、朝には見えていたはずのむこうの稜線が気づかぬうちに空気のなかにぼやけて見えなくなるときの感じにも似て、さりげなく、のんびりとして、静かだ。翼をひろげた知らない鳥が、その羽を動かすこともなく、悠々と飛んで、遠近法のむこうに小さくなっていくような、なんだかそんな気配もする。

山の匂い

風がとてもつよく吹いた日の午後だったから、北側の斜面を歩いて稜線の峠が見えてきた時には、南からの大きな風の音がごうごうと聞こえた。夕立かなにかにあたるかなとも思ったけれど、天気は夜にテント場に戻るまでの間はなんとか持って、曇り空の峠に座って、持っていった煎餅をひとつずつ大事にぼりぼりと噛んだ。峠の山小屋はふたつとも休業中で、ひとはあんまり見当たらなかった。風に流された分厚い雲がほんの一瞬ざっくりと割れて、火口壁の上に夏雲が浮いた。

たまたまいただいたオートミールに、もらいものの豆やら残りものの豆やらを混ぜ合わせて、フライパンの上で炒る。それぞれに違うところから寄せ集まった豆たちが、高温のフライパンの上でごったに炒られて、小さくてバラバラなものになっていく。

それぞれの豆の違いが焦げ目のついた色そのものに変換されて小さく砕けていったところに、ナツメやハチミツや余りものの黒糖を入れる。しばらく冷蔵庫で冷やしてみると、小さな豆たちは互いにくっつきあって、なぜだかひとつのものになった。

山でそれを包みから開くと、冷蔵庫から出した時よりはパラパラとしはじめているけれど、それでもかろうじて全体がくっついて、ひとつの固形になっている。食べてみると、おどろくほど美味しい。

それぞれに異なるところからやってきたいろいろな小さなものごとが、バラバラなまま、ある時たまたまひとつの状態にまとまること。その状態はそう長くは続かないのだろうけれど、それがいいのだと思う。豆に学んだ小さなこと。

重ねたものの薄さ

むかし買った本をパラパラとめくっていたら、図面というのは手紙のようなものだと、ある尊敬する建築家のひとが言っていた。

おんなじだ。自分の身分も顧みず、失礼にも勝手にそう共感をしてしまう一方で、その手紙らしきものがそれを手渡したひとに「届いた」と思えた瞬間はいったい今までにいくつあっただろう。片手で数えるほどのその瞬間をひとつひとつ丁寧に想いおこすと、なんだか遠くの山を見上げたくなるような気持ちになる。

トレーシングペーパーに描いてきた何百枚か何千枚かの図面たちの、その全部を小屋の箪笥から引き出して机の上に置いてみる。持ってみると意外に重いそれらの紙の束は、けれどその全てを積み重ねてみたとしても、すかすかの空気で膨らんだポテトチップの袋の厚みとそうそう大きな違いはない。

その薄さ、幾重にも積み重ねられたトレーシングペーパーの束のその存在の希薄さに、どういうわけだかホッとした心地がするのはなぜだろう。いつか、小屋の屋根が朽ち果てて大雨が吹きこんできたとしたら、きっとこの紙の束たちは透明な水の中に一瞬でその姿を溶かしていくのだろうな、と思う。

ひとが「白」の中に、あるいはその向こうに何を見ているのかは、とってもいろいろでさまざまだな、と思う。白のなかの影の部分は、時に、森のように深くて蒼かったりもする。

ひとり

和菓子屋さん、ワンタン麺屋さん、布団屋さん、パン屋さん、手芸屋さん、煎餅屋さん。この数年の間に近所では、お世話になったいくつもの古いお店が小さな店先のシャッターを閉めた。

後を継いでくださるひとがいたら良かったのになあと茫々と思う一方で、それらのお店の素晴らしさは、その「お店」とそれを営んでいる「ひと」ととが切り離せない関係であるからこその素晴らしさだったのだとも感じる。

ものとひと。あるいは空間とひと。それらがもっとも密接な関係を結ぶのは、そこに在るひとが「ひとり」である時だと思う。動かす手の数が少なければ少ないほど、その手がつくりだす「もの」と、それをつくる「ひと」との関係は、切り離すことのできないものになっていく。

そのひとのつくった和菓子じゃなければ、そのひとのつくったワンタン麺じゃなければ、そのひとのつくった煎餅じゃなければ、ダメなのだ。そうじゃなかったら、もう、その店がそこに在り続ける必要は、きっとないのだ。その潔さ、その静かな強さが、閉めてしまった小さなお店ひとつひとつの眩いような美しさなのだと、自分には思える。