雪解けの音

お昼の太陽に照らされて、森の上からぽたぽたと水滴が落ちてくる。
鳥が鳴いていないから、水滴が雪を打つ音がとてもよく聞こえる。

雪の道がすこしずつゆるんで、そうして春になっていくときの音は、たとえばこんな音なのだろうか。動物たちや植物たちは、冬の終わりにこんな音を聞いて、山の春を予感していたりもするんだろうか。

麓へおりていく広々とした谷すじでは、たくさんの小さな雪解けの水がつぎつぎに合流して、太い流れになっていた。にぎやかな水の音につつまれた明るい沢の斜面には、山桜があちこちに咲いていた。

山の肩

この前の夜の山の右肩。
ぞくりとした。流れる雲もなく、なんの音もしなかった。

綿毛

見上げているのは、目の前のそれじゃない。
見えているそれじゃない。

透明な紙の線の上に知らず知らず膨らんでしまった期待と意識をパチンと弾いて、なんとなく遠くのほうに投げてみる。どこからか風が吹いて、ふわふわと遠くの霧のむこうまで飛ばされていくと良い。

損をすること

事務所をこの小屋に移転してから、あともうちょっとでようやく1年。

笑ってしまうほど寒かった冬をようやく越したと思ったら、笑ってしまうほど暑いあの夏の日々が梅雨を越した先にふたたびやってくる。そう思うだけで身体が去年の夏を思い出して固まりだす。それからちょっと笑ってしまう。

季節というものはなぜだか愉快で、可笑しみのあるものだ。小屋にいると、そう思う。この心地よい気温の春のうちに、できるだけのことはやっておこう。それからまたあたらしい工夫を凝らして、ひとつひとつ、なんとか次の季節をむかえられると良い。えんやこらさと季節が進んでいくと良い。

「思想とはある考えによって損をすること、と定義したひとがいた。」

遠い時間のむこうのある日、あるところで、高須賀さんはそんなふうに書いた。

ことばに、そっと小さな手が生えてくれたらいいのに。
くだらない妄想。

ゆきやなぎ

ベランダのユキヤナギ。腰壁の上を吹く風を避けるためか、先端の枝を枯らし、根元のほうから生き生きと枝分かれをくりかえして、年々低い姿勢になってきている。ほったらかしなのに毎年咲いて、力強いのに繊細で、上から見ると暗く尖り、横から眺めると澄ました顔で揺れていて、下から見上げると明るい。

こだま

知らない誰かがつかっていた製図板を昨年末にもらい受けたから、ずーっとつかっている製図板(これは知っている誰かからのもらいもの)を小屋に、あたらしくもらった製図板を自宅にそれぞれ配備して、透明な紙の上に線をひく毎日を茫々とつづけている。

あたらしくもらった製図板は、ずっとつかっていたほうの製図板とはほんの少しだけつくりが違うから、最初はちょっとの操作に戸惑いを感じたものだけど、幾度も夜半の時間を共にしているうちにその戸惑いはさーっとどこかに消えていった。ひとのくり返す習慣には、なんというか、なんとも不思議な強さがある。

机の右側に積みあがった古いジャマイカのCDの大群の、その一番底のほうから久しぶりに『world of echo』を発掘して、それをよく聞いていた頃に読んでいた本を今度は机の左側から引っ張り出してみる。

「彼はただ、書かれたものを構成している痕跡のすべてを、同じ一つの場所に集めておく、あの『誰か』にすぎない。」

アーサー・ラッセルが80年代のニューヨークでやっていたことを、70年代のバルトは『作者の死』と題されたその文章の中でほんとうにうまく表現していて、その言葉は製図板のうえを滑るシャープペンシルを一瞬のうちに追いこして、透明な紙のむこうに走っていく。すーっと。音もなく。

窓のそとではベランダのユキヤナギが、春の午後に今日も次々と小さな白を咲かせている。去年もやってきた数羽のスズメがひさしぶりに腰壁のところにとまって、その白の下のあたりをしきりにのぞきこんでは、首をひねってあそんでいる。

半月

小屋からの帰り。ぶおんぶおんと大袈裟な音をたてて車やトラックが行き交う大通りの坂の途中、なんとなくひとつの木と目が合ったような感じがした。

その木の前を通りすぎ、しばらくペダルを漕いでから、それからやっぱり自転車を180°回転して登りかけた坂道を引き返す。さっきの木がさっきの場所に、まっすぐに暗闇を突いて立っている。

木のてっぺんの真上には白い半月がゆらゆらと揺れていて、すこし先の道ばたでは小さな花束を抱えたおじいさんが茫々となにかを見つめていた。

雪と木の遊び

この前の雪の日の翌朝、いつもの公園の林の机で自転車に座って弁当を頬張っているとき。小さな音がして、すぐそこの空中を小枝や木肌が真っ白な雪と共に地面のほうへと落ちていった。慣れない雪の重みに耐えかねたのだろうか。なんだか雪と木が久々の再会を懐かしみ、遊んでいるみたいにも見えた。

かわらないもの

「どんな感情がひとのやる気を一番大きくするか、知ってる?」

設計の仕事に携わりはじめたばかりの頃、ある女性の先輩にそんなふうなことを聞かれた。なんですか?と答えた自分にそのひとは間髪いれずに早口で言った。

「怒りだから。」

机にむかうとき。三角定規を構えて鉛の線を一本一本走らせているとき。自転車を漕ぐとき。湯たんぽを抱えて丸くなっているとき。今でも変わらないものがあるとしたら、それはたとえばどんな感情だろう。

かわらないもの。かわれないもの。かわることができないもの。

きのうの小屋は春めいて、窓をあけると農園のひとたちがあちこちで土を耕しているのが見えた。鳥たちが春だ春だと鳴いていて、その声に背中を押されながらいつもの机やベニヤの床をせっせと雑巾で磨いた。

遠くの国で、大きな声を張りあげているひとがいる。

ベランダのユキヤナギの芽は、日に日にぷくぷくと膨らんで今にも新しい生命が飛びだしてきそうな気配がする。川沿いの道をツグミがトコトコと歩いてたちどまる。シジュウカラが公園の木の上でおしゃべりをしている。

この前の雪の日、木はとても静かだったな、とふと思う。

古い網戸

「硝子戸の中から外を見渡すと、霜除をした芭蕉だの、赤い実のった梅もどきの枝だの、無遠慮に直立した電信柱だのがすぐ眼に着くが、その他にこれと云って数え立てるほどのものはほとんど視線に入って来ない。書斎にいる私の眼界は極めて単調でそうしてまた極めて狭いのである。」

漱石の『硝子戸の中』の書き出しはそんなふうにはじまるが、小屋の土間の古い網戸の内側から外を見ていると、その「極めて単調で」「極めて狭い」視界の中の平凡な情景をつぶさに観察して記そうとした漱石の感じの、その中のせめてほんのひとかけらくらいの感覚は、自分のような凡庸な人間にもなんとなく分かるような気がしてくることが、あったりもする。

古いものの内側から遠くの新しいもののほうを眺めると、そこにはぼんやりとした距離のような、余白のようなものが生まれる。そしてひとの内側は、なんだか静かになってくる。古いものの価値は、たとえばそんなところにも、あるのだろうか。

春の前

自転車を漕いで温まった身体で、きーんと冷えた小屋へと入る。
梯子をのぼってトタンの湯たんぽを卓上のガスコンロで暖める。

ぽっ。と火がついて、冷えきったトタンの表面がじりじりと音をたてる。火が水を暖めていく音は本当に静かで、それでいてなんだかやわらかい。いつまでも聞いていられるなあー、と思いながら仕事の準備をはじめているうちに、自転車で温まった身体がぐんぐんと冷えていく。

じーっと動くことのなかった透明な水が、次第にふつふつと音をたてて、湯たんぽのなかで少しずつうごめきだす。窓の内側でぼんやりと座っているツタ性のガジュマルがぷっくりと葉っぱを充実させ、元気よく太陽のほうを向いている。

もうすこしすると、春なのかもしれない。

暮らし

地に足をつけて毎日を暮らすと、良い図面が描けるのではないかと思っている。

日々の暮らしが、自分の手や、その手で描く図面に否応なしにあらわれてしまうところを何度も目の当たりにしてきたから、だからサボりがちな身体を動かして、自分のペースで自分なりにきちんと毎日を暮らそうと少しでも努力をしてみることは、きっと良い建築をつくることに遠くのどこかでつながっている。

とどかないものに手をさしだしているときの姿が
いちばん美しいのではないかと思う。

表情

喜んだり、悲しんだり。空をあおいだり、うつむいたり。
ひとにはひとのいろんな表情があるように、木には木のいろんな表情がある。

いまの機嫌はどんなですか。
たとえばそう聞いてみたとしても、すました顔でかわされそうだ。

若いもの、年老いたもの。
いろんな枝がひとつの木のなかに等しく在り、ぱやんぱやんとゆれている。

ものを伝える芯

図面はいつも、このペンテルの0.5mmのシャーペンに、やはりペンテルAinSTEINの0.5mmのBの芯を入れて、ほとんど全部の線を描く。それはいろんないろんな芯の種類や太さや濃さを試したうえで結局最後まで残った組み合わせで、ある意味ではごくごく普通の、あたりまえの組み合わせであったりもする。

細かな文字を描く時には0.3mmの2Bを、地面のハッチングを描く時には0.9mmのBをまじえることもあるけれど、基本的にはほとんどのものを0.5mmのBをつかって描くから、このシャーペンを手に持つと図面を描いていない時でもなんだか調子がいい。

そんなわけで、今年からは手帳に何かを書き留めるときに使うペンも、いままで使っていたブルーブラックのインクペンからこの0.5mmのシャーペンに替えた。

あれはいったい、いつのことだったのだろうか。

ここ数年の手帳をいくつか見返してみたけれど、まったくどこにも見当たらないくらい遠くに遠くに遠ざかってしまった過去のありふれたある日の夜遅く、あんまり行かない街でたまたま入った地下の大衆酒場で、隣の席に座った常連さんが少し前まで手書きで施工図を描くことを仕事にしていたひとだった。

自分が手描きで図面を描いているのだということをちょっとだけそのひとに話をすると、そのひとはまっさきに「何ミリの芯で描いてんの?」と言った。芯の太さを聞いてくるひとなんてはじめてだったから、自分はすっかりうれしくなって「0.5のBです」と答えた。それでほとんど全部を描いています、と。

するとその施工図屋さんはニヤリと笑って「まだまだだなあ。」と言って、ゴクリと焼酎を飲んだ。
「全部、0.9で描かなきゃ。施工図ってのはさあ、ものをつくってるひとたちが現場でパッと見やすいように描かなきゃならないわけ。0.5じゃ薄すぎるんだよな。」

「でも、たとえば、図面の上に文字を描く時の引き出し線は、0.9だと太すぎて逆に見づらくないですか。自分は引き出し線は0.5か、縮尺によっては0.3で描いてるんですが。」

そんなふうに聞くと、そのひとは「引き出し線こそ濃く太く描かないとダメだよ。」と間髪をいれずに言った。「だってさあ、引き出し線ていうのは図面から文字を『引き出す』んだぜ。大工さんや職人さんに伝えたい言葉を図面の中からグイッと引っ張り出す線なわけ。だから、引き出し線こそ、か細い線なんかじゃなくて、グッと太い線で描かないと伝わんないんだよな。」

あれはやっぱりいつのことだったのだろう。

酔いのまわった頭にサーっと静かな波が押し寄せたあの晩は、何度探してもやっぱり手帳の中には見つからず、その日の地下の焼酎酒場にもそれ以来行くことが出来ていない。

描くこと

ひとつ前に描いたものよりも、少しだけ丁寧に。
ひとつ前に描いたものよりも、少しだけ手間をかけて。

そうやってほんのわずかな少しをひとつずつ足していくと、前よりもなんだかちょっと、良い図面が描けたような気がしてくる。

良い図面が描けると、気持ちがいい。半透明の紙の上に、さーっと晴れ間がひらけてきて、気持ちがさらさらと澄んでくる。図面がうまく描けたなあと思ったら、ふーっと休んで、息をついて。次はここからあと少し、工夫をこらして、手間をかけて。そうしてもうほんの一寸ばかり、うまく描けるようになれたらいい。

自分の手で、一歩ずつ、ひとつひとつ。地べたに足をくっつけながら、ゆっくりと歩いていくように、描いていけたらいいなと思う。

ガジュマル

家のガジュマルは毎年同じようなペースでいくつかの葉っぱを落とし、いくつかの葉っぱを生む。そんなふうにしてもうかれこれ15年くらい、寒くて暑い部屋の中でガジュマルは澄ました顔で暮らしてきた。

そろそろきみも中年だねえ、なんて言ってみたくもなるけれど、ガジュマルの長い時間の中では15年なんて米粒にも満たない大きさなのかもしれない。

落ちていく葉っぱはすこし乾いて黄色くなって下を向き、生まれていく葉っぱにあたらしい道を譲る。生まれたての葉っぱを手で触れると、新しいもののみずみずしさが指先からいつもさりげなく伝わってくる。

このみずみずしさに道を譲るために、古い葉っぱは自分の葉を自分の意思で乾かしていくのだろうか。だとしたら尊いし、そうでなくても葉の1枚1枚は何も知らないニンゲンにとってはすべて等しく大切だ。

そろそろいい加減、もうひとつ大きな鉢にうつしてあげねばとも思うけれど、いまの気分はどんなだろう。しばらくじーっと眺めてご機嫌を伺ってみたけれど、澄ました顔のガジュマルはうんともすんとも言いやしない。

仕方なく、今朝も乾いた葉っぱをせっせと手にとって、それから鉢に水やりをした。

白い文字

雪の朝。凍りついたアスファルトの路面は山の道よりも滑るから、ゆっくりゆっくりペタペタと歩く。真っ白な道のむこうでスッテンコロリン、自転車ごと静かに転んだ女のひとが帽子をかぶった頭をかいている。

終着駅で停車中の電車に乗ると、車両の端から作業服を着たひとがひとり何かを小脇に抱えながら目の前まで歩いてきて、ぺこりとおじぎをしてホームにおりていく。

小脇に抱えられたものはよく見ると小さな古い木の椅子で、年季の入ったその脚には白い手書きの文字で何かの言葉が書かれている。それからまたそのひとは、隣の車両に乗り込んでもう一度ぺこりと丁寧におじぎをする。

そのひとはたぶん、中吊り広告の張り替えをしに来たひとで、あの古い小さな木の椅子に乗っかって、このあとも電車が出発するまで仕事を続けるのだろう。そのひとの小脇に抱えられた木の椅子は、まるでバスケの選手が抱えたバスケットボールのようにそのひとの身体にぴったりと馴染んで、寡黙そうなそのひとの腕の中で次の仕事を静かに待っている。

あの古びた脚には、白い文字で、いったいどんな言葉が書かれているのだろう。歩いてきた道の白さより、見知らぬそのひとが抱えていた文字の白さのほうが、なんだかそこにぼやんと残って消えなかった。