雲の気配

ゆっくりと空を覆う夏の雲。

暗がりと明るさの濃淡と、静かに変化する気配と質感。雲の表情の一瞬一瞬の中にある、凡庸でありふれた、しかし他の何よりも鮮やかな景色。見ていて飽きることがないです。

人のつくる空間も、できればそんな鮮やかな凡庸さと瑞々しい気配とを兼ね備えたものでありたいなと、いつも思います。

陽の仕事

たまたま古本屋で手に取った詩集。あまりに素晴らしかったので。

学生時代にリチャード・ブローティガンという作家の詩の虜になって以来、古本屋で時たま買いためてきた詩集たち。石垣りん、中野重治、レイモンド・カーヴァ―、高田敏子、八代信、長田弘、茨木のり子、、、それから、大好きな山之口貘。ふと気づけば、本棚の中にじわじわと古い詩集たちが増殖しています。

古本屋でふとした瞬間に見かける詩集たちは、知らない街で出会う名もない建物たちに、どこか似ている気がします。

コンクリートの庭

通りかかった団地の庭にて。

転用され反復されたコンクリートと小さな緑地と、その中にまだ残っている人の手の痕跡。そして、どこかちょっとユーモラスな風情も感じさせます。

街の足元で、創意し、工夫を凝らすこと。

川に沿って

新しい案件の打合せで自転車にて小金井へ。自宅から神田川に沿って上流まで約40分、そこから玉川上水に沿って30分程の、川沿いの道中をふらふらと。

日頃から自転車で東京を右往左往していると、川沿いの道は信号が無く、木影と風が涼しく、走りやすくて、快適な自然の高速道路のように感じます。

長生村、役場近く

書類提出のため、長生村、村役場へ。

蜃気楼が見えそうな暑さの中、八積駅から村役場まで往復40分程の道中を歩く。すれ違ったのは草刈りをする農家の方が2名ほど。他に出会うのは見渡す限りの田んぼと林と点在する家。房総の平野の風景。

重心は低く

丸亀市猪熊弦一郎現代美術館のカフェスペース。

鮮やかなブルーの床面と天童木工の家具の色合いとが調和し、居心地の良いしっとりとした空間がつくられていました。開口部まわりのガラスブロックの使われ方も印象的。窓際は天井がぐっと下げられて、外に向かう視線の重心が落とされ、そのこともまた空間に落ち着きと静けさを与えていたように思います。

美術館の内部では、他の場所でも下がり壁や腰壁によって、絶妙に人の重心や視線の行き先がコントロールされていて、そのような丁寧な設えの積み重ねによって、美術館全体の凛とした抑制された雰囲気が生み出されているように感じました。

整理すること

丸亀市猪熊弦一郎現代美術館。街中のアーケードが建物の中に引き込まれたかのような気持ちの良い半屋外空間。余分なものが取り除かれた美しい光と壁。

既存の環境やものごとの成り立ち方を解釈し、削ぎ落し、整理していくことで生まれる空間のあり方について考えさせられました。

2つの窓

とある街角で見かけた木製の素朴な両開き窓。

ここだけ切り取ると、日本の風景ではないような雰囲気。庇の形状が面白い。壁への窓の「埋め込まれ感」も良い味を出しているように思います。

アーケード

高松、晴れた午後のアーケード。時間が停まったような雰囲気。

遠い時間の遠い場所の行ったことのないどこかの街への憧れのようなもの。そんな感情が日本の街中のアーケードの源にはあるのかもしれないなと思います。

街の足もと

何の変哲もない普通の道端の色と形。

「さりげない」とか「あるがまま」とかというものとは少し違う、都市の街角に佇む「無造作」で「なされるがまま」のものの放つ力。人知れず存在する小さなものが持つ静かで強い意思の形。彼らが訴えかけてくるもの。

いつもどこかに転がっている、そんなものの在り方に学びたい。

波打ち際

飛行機の窓より。波打ち際のような雲の様相。海のような空。波のような雲。

砂漠に線を引くように

香川県、現場の地縄張り。砂漠のような平坦な地表面にすーっと延びる白いライン。

地縄張りの時は、これから建てる建物が最も小さく狭く感じる瞬間で、ここに基礎を打ち、軸組ができ、壁が張られていくと、次第に建物は広く大きく見えるようになっていきます。

逆に言えば、地縄張りの瞬間が、その土地とこれから建てる建物とが最も素直な状態で対峙していると言えるのかもしれません。

煙突の整列

函館の街角で見かけた小さな風景。

赤と青、素朴な2色のトタンの対比と、規則正しく並びながら広い空を支える煙突の列柱。

線をまたぐ

先日、鳥取のある茅葺き民家の内部を見学させていただいた時、天井材が漆で仕上がられ、小さな床の間まで設えられた、とても綺麗な部屋がありました。隣には木製桶のあるお風呂場。

脱衣場のように使うであろうこの部屋に、なぜこのような豪華な設えがされているのだろうか、と案内をしていただいた居住者の親戚の方に聞いてみた時のこと。

そこは客間の延長にあるお客様用の風呂場と脱衣場であるがゆえに、漆や床の間による設えがされており、そのような格の高い場所には子供の頃から日常の中で一度も足を踏み入れたことがなく、内部を一般に公開するようになって、初めてその部屋がどんな部屋なのかを知りました、との答え。

振り返ると、客間と居間との間には小さな段差があり、さらにもう1段、脱衣場の入口にも僅かな段差がつけられていました。

日本の木造建築の近代化・民主化は、余分な部材や段差を消し、線の少ないフラットな空間を求めるところから始まったものだと思います。近代化の中で消し去られてしまった「1本の線」の中に込められた深い意味と長い時間とを想いました。

写真は「勝浦の家」の床。桧のフローリングの小口にフローリングと同じ幅の見切りをまわし、豆砂利洗い出しの土間からほんの少しだけ浮かせています。

屋根の稜線

どこかの山の尾根のような、稜線のような、光る斜面。なだらかに続いていく屋根と空。

生きている架構

鳥取の茅葺き民家の梁組み。

うねりを持った梁が連続して架け渡されるさまは本当に圧巻で、有機的などという言葉を軽く飛び越えて、暗がりに満ちた小屋裏全体がうごめき、「生きている」かのようでした。

木材がかつて山の中で単体で生きていた時よりも、より生命感を宿した形となるように、人の手で加工をし、他の材と組み合わせ、新たに「生きている」ものとして生まれ変わらせること。そこにある、木に対する敬いや畏れのような感情。

そんなものが木造建築の架構の源にあるような気がして、何度か闇を仰ぎました。

茅葺き

先週末、鳥取県の大山町で開催された、第9回茅葺きフォーラムに参加しました。

茅葺き職人さんたちの熱い想いと、大山の澄み切った空気と、茅葺き民家に蓄積された長い時間と技術とを感じながらの、とても充実した2日間となりました。

建築の設計に携わる者の出来ることは何だろうか。これから少しずつ考えていきたいと思います。

工事中

現場。母屋と垂木の架構。

朽ちたものの芯の部分

ある時、とある板画家が、指導する学生の彫っていた人体の彫像に横から手を加えていくうちに、次第に熱を帯びていき、彫像はみるみるうちに細く細く削り取られ、儚く崩れ落ちるほどの細さになり、終いには全てが削り落とされて、目の前からは何も無くなってしまった。

先日、たまたま立ち寄った資料館に、もはや原型もはっきりとは分からないほどに朽ち果てている、小さな木彫りの仏像があって、その静かで素朴な美しい姿に、その場を立ち去りがたい深い感動を覚えるとともに、大好きな板画家・棟方志功のそんな逸話を思い出しました。