それがほとんどの人には届かない声だとしても、
自分には聞こえる自分自身の声がある。

ある海外の音楽批評家の人がずいぶん昔に言っていた言葉。
今日、その言葉をふと机の上で思い出した。
たとえそれが誰にも伝わらないとしても、自分だけのこだわりを心の底にじっと持ちつづけていたい。

歩くこと描くこと

自分の足で山や森を歩くことと、自分の手で図面を描くこと。
そのふたつは、似ている。
時には、ほとんど等しいくらいかもしれない。

最近、明らかな実感をもってそんなことを思うようになった。
どちらもそれをしている間は頭の中がさーっと澄んできて、無心になる。
空っぽになった頭の上を、いろいろな空想が風のようにかすめていって、気がつくとどこかに消えている。

どちらもそれぞれ、歩ききることや描ききることが取り急ぎの目標ではあるのだけど、その目標が完了する前の、途中段階や過程の中に、自分が心を惹かれる瞬間があるような感じがする。自分の足を動かして山の中に入りこんでいくことと、自分の手を動かして図面の中に入りこんでいくことは、とてもよく似ている。

車やロープウェイで行けば手軽にたどり着けるような場所に、わざわざ息を切らせて歩いていくことの徒労と、コンピューターで描けば手軽に描ききれるような図面を、わざわざ手を黒く汚しながら何度も下書きし描きなおしていくことの徒労。

その無為、無駄、無意味さが、いまこの現代の中で消し去られた小さな何かをきらりと際立たせる瞬間が、ぼんやりと、でもたしかにあるような気がする。こんな状況で、山にはしばらく行けていないけれど、机の上にシャープペンシルとトレーシングペーパーと三角定規さえあれば、これさえあれば、何とかなる。

いや、でも、山には、行きたいな。。。

いれるもの

3月。最終日にぎりぎり間に合って行くことが出来た友人の展示。
置かれていたモノも空間の雰囲気も、どれもとても感じがよくて、こんな良い展示ができて羨ましいなあと思うような、そんな展示だった。

展示されていたものの中で、どれを購入させてもらおうかいろいろと迷って、悩みに悩んだあげく、小さな蓋つきの壺のようなものをひとつ買わせてもらった。

普段使いできそうな湯飲みとかお皿とか、魅力的に思えたものは他にもいくつもあった。しかし、その小さな壺のようなものだけは、それにいったい自分は何をいれたらいいのか、全く思いつかなかった。本当に、全然思いつかなかった。いれるものをぼーっと考えているうちに、時間ばかりがどんどんと過ぎた。

そうこうしているうちに次第に、「いくら考えてみてもそこにいれるものが全く思いつかない」というのはなんだか面白いことなのかもしれない、という感じがしてきた。そして、それにいれるものが思いついた暁には、きっと今までにない新鮮な心地がするような気さえしてくるようになった。それで、長居の末、その壺に決めた。

それから2カ月以上経った今、事務所の机の上には、他のいろいろな器にまじって、その小さな壺が空っぽのまま、ちょこんと座っている。いれるものは相変わらず、全然見つかっていない。

いったい全体この壺のようなものには何をいれたら良いのだろう。。だいたい何をいれる想定なのだろう。。というかこれはそもそも壺なのだろうか。。なぜこんなにもいれるものが思いつかないのだろう。。わからない。。いれるものがわからない。。イレルモノガゼンゼンワカラナイ。。。途方に暮れて頭を抱える人間のすぐ脇で、小さな壺がせせら笑うように座っている。

風の空想

自分にとって、山や森や雑木林を歩く楽しみのなかで、もっとも大きな部分を占めているもののひとつは「風」かもしれない。

風の音に耳をそばだてながら、風が揺らしていくものたちをぼーっと眺めていると、山を歩くことは風の跡を辿ることに等しい、などというおかしな考えが頭をかすめていきそうになることだって、たまにはある。

その風はどこから吹いてきて、どこへ向かうのか。その風はどのくらいむかしの風なのか。それが運んでいるものは何なのか。風をめぐる空想はいつだって尽きることがなくて、楽しい。

瞬間

今だからやりたいことと、これまでやってきたこととが次第に溢れてきて、毎日のように事務所に通いながら机の上でざわざわとしているうちに、5月もそろそろ半分が過ぎる。なんだかひとり静かな活気に満ちているような気もする今日この頃。

今やりたいことは、ものが立体になっていく素朴な瞬間というか、ものがぎこちなく立ち上がっていくその瞬間、ものがかたちになるはじまりの頃のようなものに、触れたい、それを描きたい、手に遺したい、ということ。

な気がする。のだけどまだよくわからない。やりたいことは、相変わらずちょこちょこと製図板のうえで線を描きながら考える。窓の外の鳥の声を聞きながら、描く。それから考える。それと同時に、目の前にあるこれまでやってきたことを、しっかりと進める。人知れず、気合を入れて。いまこの瞬間に出来ることを。丁寧に。時にはぼんやりと。ひとつひとつ。そんなことをくりかえし、自分に言い聞かせるようにして。

事務所までのいつもの道に咲く小さな一瞬は、今日もまたピンぼけ。。
窓の外では、オナガの群れがガヤガヤと騒がしい。毎日のようにやって来て、木の上でさえずりの練習を重ねているウグイスは、次第に上手に鳴けるようになってきた。

渡っていく

朝、近所の川辺では、春の風にのってツバメたちが飛びまわる姿をよく見かけるようになった。4月の半ば頃からだろうか。風の強い日ほど、楽しそうに翼をひろげて川の上を飛んでいる。

調べてみたら、ツバメは群れになって渡るのではなく、一羽ずつ単独で渡ってくるのだという。
昼間、太陽を目印に。あの小さな身体で。

彼らはどんなところから飛びたって、どの風に運ばれて、いま、ここにいるのだろう。渡り鳥をみかけると、ついつい空をあおいで遠い場所にぼけーっと思いをはせてしまって、それからふと我にかえって足元の土を見つめる。どおーっと風の音がして、川の上をいつのまにやら季節が渡る。

写真は、事務所の窓辺で気持ちよさそうに春の光をあびているポトスとつる性ガジュマル。
今年も冬を越せたね。

塀の裏の自由

休日、近所の道を歩いている時に、通りに面した小さな家の1階の窓の前、ベランダのような低い塀に囲まれた場所から、あまり見かけないくらい大量のシャボン玉が空へと舞いあがっていくのが見えた。

塀の高さはだいたい1メートル、窓と塀の間の奥行きは60センチくらいだろうか。どうやら、その塀と窓とに挟まれた余白のようなスペースで誰かがシャボン玉を吹いているらしかった。すぐ隣には小さな庭もあるというのに、わざわざその狭苦しい空間の影に身を潜めて吹いている。

塀の裏側でキャッキャとはしゃぐ声はしないし、物音もしない。塀の高さは結構低いのに、子供の頭は見えてこない。窓のカーテンも閉まっている。一度に吹かれるシャボン玉の量は、なんだか妙に多い。

子供にしてはおとなしくて、やたら肺活量のある子だなあ、きっと大人びた体格の静かな子供なんだろうなあ。なんて妙に感心しながら近づいていくと、また音もなく、膨大な量のシャボン玉が一気に塀の上に姿を現して、ギョッとした。

家の前を通りすぎるとき、そっと塀のむこうに耳を澄ましてみたけれど、やっぱり声はしない。音もしない。頭も見えない。

いや、待てよ。
あの塀の後ろに隠れているのは、子供とは限らないのではないか。
そんな考えが、その時ふと頭をかすめた。

いい歳の大人が、もしかするとコワモテをした髭面のおじさんなんかが、この状況下、休日の時間をもて余し、通行人に隠れてシャボン玉を吹いているのではあるまいか。

だとしたら、あの謎の肺活量も合点がいく。そうか、きっと屈強な大男に違いない。それにカーテンも閉まってるということは家族にも内緒なんだな。だからあの狭いスペースに身をかがめて隠れているのか。家族には窓の外でダンディに煙草をふかしてくるふりをしながら、実はひとり童心にかえって大量のシャボン玉を必死にふかしているんだ。

こちらの空想がぷくぷくとシャボン玉のごとく膨らんでいくのに合わせるかのように、塀のむこうからは大量のシャボン玉が次々に空中にむけて発射されていく。相変わらず、声はせず人影は見えず、ひっそりとした静けさが小さな家のまわりをつつんでいる。

よく晴れた空の下、目の前にある低い塀の裏側のわずか60センチの奥行の中で、恥ずかしさに小さく身をかがめた髭面の大男が、こちらに気づかれないように静かに息を潜め、自慢の肺活量を駆使して必死の形相で楽しそうにシャボン玉を吹いている姿がぼんやりと脳裏に浮かんできて、なんだか妙に可笑しかった。

それぞれの手

いま、世界ではどれくらいの手が動き続けているだろう。

きっと今も遠くのどこかで黙々と動き続けているのであろういくつもの手を、ただ頭の中に思い浮かべてみるだけで、なんだか少し幸せな気分になる。たとえそれが見知らぬ手であったとしても、その手の軌跡を勝手に想像してみるだけで、なぜだかホッとした心地がする。

でもこのような状況の今、その人の意思に反して、動くことをやめざるを得なくなってしまった手も、きっと少なからずあるに違いない。もしかしたらその中には、何百日も何千日も何万日も、同じような軌跡を描きながら繰り返し動き続けてきた手もあるかもしれない。
その手をとめるということ、暑い日も寒い日も繰り返し動き続けてきたその手をとめるということは、その人にとっていったいどれほどの痛みと悲しみを伴うものであるだろう。

動き続ける手と、動くことをやめてしまった手。

それぞれの手を、ただただ心の中に思い浮かべてみる。
深い敬意と共に、静かに思い浮かべてみる。