均整

古びた建築を見ているとき、その建物や空間に宿されている比例や均整のようなものに唐突な共感や不可思議な懐かしさを覚えることがある。

比例や均整というものは、その建物の「構え」や「重心」を決定づけるものであり、その建物をつくった誰か、描いた誰かの身体感覚であったり世界との距離感(世界の中での自分自身の理想の立ち方)であったりを反映したものでもあるのだろうなと感じる。

いつかの時代の名前も知らない誰かと、そこから遠く隔たった場所にいる自分とが、そこに遺された建物の比例や各部の寸法の均整によって結びつけられること。

寸法というただの数字の存在が、いくつかの時代や場所を飛び越えて、遠くの誰かの身体の底をかすかに揺さぶる可能性があるということが、建築が遺っていくことの意味であり、図面の中に線と数字を書き連ねていくことの面白さでもあるのかもしれない。そこにはきっと、幾何学というものの影が霧のように漂っているのだろう。

夏の終わりのある朝、山の麓の小さな建築を見上げながらそんなことを少しだけ、考えた。

風景に

この風景みたいになりたい。
と思えるような風景をいつか自分の足で見つけられたならば、きっと素晴らしい。できればその風景は、静かでありふれていて飾り気のないものが良いなと思う。

小さな峠

古い神社の脇から植林された杉林の中に入って、早朝、まったくひとの気配のない道をてくてくとのぼる。

その途中でふと脇道にそれて、ほとんど名前の知られていない小さな小さな山に寄ってみる。胸の高さほどまで茂った笹に晩夏の匂いがたちこめて、その合間にひとの通った痕跡がかすかに見える。

誰もいない。誰かがいた痕跡もあまりよく見えなくなってしまっているような小さな山の頂には、
一面の笹の海。蝉の声。

左から右、右から左へと張り巡らされた繊細な蜘蛛の糸を壊さぬように、その下をそーっとかがみながら通りぬけ、明るい稜線の道に出ると、小さな峠にひとつだけ、むらさき色の花が咲いていた。

町家の井戸

以前行った、ある古い町家の片隅。
深い光の井戸の底にゴロンと置かれた象徴的な木の桶。

小さなひとつの住居とそこでの生活が、それを取り巻く都市や街の時空の中にどのように埋め込まれたものであったのかを示唆するような、目に見えない空想の力に溢れた場所だった。

この住居に暮らした人が、どのように自分を取り巻く世界と対峙していたのかということが、住居そのものの空間的な構えにあられているような感じがした。

対象の遠さ

たとえばある山を歩いたとして、その山のことを自分の中で理解したり、誰かに話したり、伝えたりすることが出来るのは、その山を歩いた日からずいぶん時が経った後のことだったりする。

ある本を読んだとして、その本の意味が自分の中で噛み砕かれて溶け出すのには、少なからずある程度の年月を要するし、ある図面を描いたとして、そこで描きたかったことの内容をふと実感することが出来るのは、それを描いた日から遠く離れた時であることが多い。

ある対象を、自分がその対象の目の前にいる時に、きちんと理解するのは難しい。
その対象の意味は、そこから遠ざかった時にはじめてぼんやりと浮かびあがってくる。

だから写真であれ描画であれ文章であれ、まずは自分の目の前にあるその対象を淡々と記録することに価値があるのだと思う。その記録を遠く離れた日に発見した時、そこではじめて生まれてくるものがあるのだと思う。

そのために、まずしなければならないことは、たぶん、動くこと、行動すること。対象の前に立つこと。それを見ること。静かに見上げること。記録すること。そして、そうしたことを続けること。
今日、そんなことを思った。

ひかりを写すひと

見るたびに「ああ。このひとはきっと光を見ているひとなんだなあ。光だけを見ていたいひとなんだなあ。」と思う写真がある。ただそのことだけが自分に伝わってくる。どの写真もさーっと澄んでいて、静かな眩しさがある。いつまでも見ていることが出来そうに思う。

影がないと光は写らない、光は影によってかたちを得るものだとばかり思っていたのだが、その写真では影は光の背後に消えている。写真の明度自体は高いわけではないから、勿論ちゃんと影は写っている。でもその写真の中では、影によって光がかたちを与えられているのではなく、それを撮るひとの視線はまっすぐに光のほうだけを向いている。カメラの後ろにいるひとは影の中から澄んだ光だけを見あげて、そっちに向かっていこうとする。

まるで植物のようだなと思う。