うそ

歩いていくと、嘘がすくないなと思う。
このあたりには、見せかけの飾りやもっともらしい誘い文句がすくないなと思う。

けれども、わからない。草は草にしかない方法でさらりと身軽に虫たちをあざむいているのかもしれないし、木は木にしかない方法で鳥たちを誘いだしているのかもしれない。

けれども、なんにも知らないにんげんは、その草の上を呑気にてくてく歩いていって、水がしずかに流れたり、風がざわざわと通ったりするたびに、ああ、なんだかこのあたりは、嘘がすくないなと思う。

暮らし

持たないこと。工夫をすること。見上げること。

未踏の岩壁を登攀したり、誰も見たことすらない渓を遡行したり。そのような場所を自分の足で踏んでいくことに情熱を燃やしたひとたちの文章を読んでいると、素直に心から憧れる。ほんとうにすごいと思う。

では自分はどうだろうと考えると、自分自身はそんな道を辿る技術も経験も勿論まったくもってないけれど、自分にとってのそれは、たとえば多くのひとが見過ごしてしまう静かな山の脇道や、忘れられた古い小径や、誰もいない小さな岩の連なりだったりもするのかもしれない。

それってなんだか、建築について思うこととおんなじだなと思う。自分がやりたい仕事とおんなじだなと思う。つくりたい建築は、自分の歩きたい道に、いつまでたってもやっぱりとてもよく似ているから、だからこんな地味な道を懲りずに何度も歩いてみたいと思うのだろうか。

、、、などということを考える暇なんて勿論ないくらい、バテバテになりながらブツブツひとりごとを言いつつ登った岩の連なりの上からの、その日歩いた静かな稜線。

地面

いろんな色があって、ひとに踏まれた気配があって、ちょっとだけ秋がある。

はやい雲

東京があんまりにも暑かった8月のある日、自宅の部屋とは20℃くらい気温が違うであろう山の上の涼しいテントの中で、眠りすぎて寝坊をした。

池のところに行くと、頭の赤いきれいな鳥が2羽、せっせと何かをついばんでいた。きのうはそこにリスがいて、夜には鹿が何度か鳴いた。小屋のひとは結局その日は来なかったから、峠のほうで激しく吹いている風の音をのぞけば、とても静かな夜だった。

テントをたたんで、峠にむかってとぼとぼ登っていくと、昨夜のテント場で一緒だったひとが引き返して戻ってくる。森林限界を抜けると今朝は強風がすごいから、今日は潔く目当ての山を諦めるという。「これで2度目の撤退」と言って、すがすがしい顔でそのひとは池のほうへと早足で下っていった。

峠にでて、それから森林限界をぬけない道を歩いて風裏を行く。途中ですれ違って話をしたおじさんは「今年の山小屋の値段は、ほんとに暴騰だよなあー」とかなんとか、しきりに愚痴を言いながら、テントを背負った背中はうきうきと楽しそうだ。今日は前に来た時のリベンジなのだという。帽子につけたオニヤンマくんがルンルンと風にゆれている。

ふたつほどピークを越して、それからもうひと登り、赤石のまじったガラガラの急坂を登っていったところの山頂で、この日すれ違ったひとたちとは、すこし感じのちがうほっそりした年配のご夫婦が、ゆっくりとした足取りでむこうから歩いてくるのが見えた。

山頂は樹林帯の中だから、そこから少し外れたところの見晴らし場まで一足先に行ってみる。誰もいない見晴らし場はものすごい暴風で、一面のガスが真っ白にたちこめて、眺望はまるでない。雲が、とてもはやく流れている。

しばらく待ってみようかと岩の上に身をかがめて座っていると、先ほどのご夫婦が樹林帯の出口のところから出てきて、強風とガスの中に立っている。なにかをしゃべっているけれど、風の音でこちらには何も聞こえないし、その姿もガスのむこうに霞んでいる。雲が行ってしまうまで何か食べ物を食べていようかなあと思ってもぞもぞとザックの中をのぞきこんでいると、ぐおーーっとさらに強い風が吹いてきた。

「晴れた!!」

雲と風をつんざいで奥さんの明るい声が響いてきて、顔をあげると一面の、見事な蒼い山々だった。

真夏の三角

前に来たときはまだ雪がのこっている頃だったから、7月も終わりに近づく真夏日に見る三角形のあの山は、きっとモクモクの入道雲の下だろうと決めこんで、地味な急坂をせっせと登った。

樹林帯をぬけだして、ぱっと視界がひらけたとき、むこうの三角は流れる雲の中にかくれて姿を消していた。休むような場所があるわけではないから、その場に立ったまま水を飲んだり食べ物を食べたりしてモゾモゾしていると、ごうごう吹く風の中からほんの一瞬、三角が顔をだした。分厚い雲がきれて、薄くて蒼い霧のようなものになり、三角のまわりをおおって、そのうえに青空が浮かんだ。

あっ。と思う間もなく薄い雲はふたたび分厚さを増して、白のなかに三角を消し去った。なにかを考えたり、見えたものを言葉に置き換えたりする暇なんてないくらいの、わずかな時間。けれどあれは、なんだかなつかしい時間だった。