白いもの

土間のところの段差に腰かけて靴を履こうとするとき、足元の暗がりのところを小さな蜘蛛がてくてくと横切っていくのが見える。いつもではないけれど、この土間の主のような彼は、たいていのんびりとその暗がりを歩いていて、立ち止まったり考えこんだり、時には早足になったりしながら、どこか見えないところに姿を消していく。土間の隅っこにある彼の家はたいてい空っぽのがらんどうで、夕方になると低い軒の先端からこぼれてくるわずかな太陽を透かすようにして白っぽくひかり、どこかから吹いてくる低い風にさらさらと揺すられながら、まるでどこか深い山の中の1本の木の先端から垂れ下がる細い枝のように、雫のようなものをぽとりぽとりと暗がりに落としつつ、静かに、ただその場所に在るように存在している。

すれ違うとき

ガランガラーン。ガランガラーン。
誰もいないと思っていた朝の山道で、うしろからではなく前のほうから低い熊鈴の音が聞こえてくる。

山頂までは長い長い一本道のはずだから、あの音は山頂からおりてくるひとの音だろう。やがて薄暗い杉木立の巻き道のむこうから、大きな荷物を背負ったひとがひとり、ルンルンと楽しそうな調子を漂わせながら下ってくるのが視界に入った。

リーンリーン。チリーン。
前からくる音を聞くために立ち止まっていたところから歩き出したとき、今度は自分のザックにくくりつけてあった熊鈴が高い音を鳴らした。

むこうから下りてきたひとは、ちょっと歩を緩めて、意外そうな表情で遠くからこっちを見ている。こんな地味な尾根をこの時間にあの村のほうから登ってくるやつがいるなんて。たぶんきっと、そんなふうに思っているに違いない。

ガランガラーン。リーンリーン。ガラリーン。

ふたつの熊鈴の音が近づいて、それから巻き道の途中ですれ違うとき、チラリと背中の荷物に目をやった。日帰りの山には到底持っていくことのないだろう大きな黄色のザックのうえに、銀色のマットがくくりつけてある。

山小屋もテント場もないこの山で、あの銀色のマットを持ったひとが早朝に上のほうから下りてくるとしたら、そうか、あの避難小屋かな。だとしたら、このひとは麓の村のひとだろうか。きのう山頂の避難小屋でひとり夜の山と戯れたあと、早朝に小屋からおりてきて、このあと何食わぬ顔でいつもの仕事場に行くのかもしれない。

すれ違うとき、消え入りそうな声で「こんちは」と低く言ったそのひとは、気まずそうな照れくさそうな、ちょっと不思議な表情をした。そのひとの心のなかに浮かんだかもしれない小さな不安や遠慮のような何とも形容のしがたい感情が、自分にもはっきりと分かるような気がするから、だからこちらも小さな声で「こんにちは」と言って下をむいて静かにすれ違った。

きのうの夜の真っ暗闇の時間から、この尾根の道のようにすーっとなだらかに連なってきたのかもしれないそのひとの中のルンルンとした穏やかな調子が、どうか自分の存在によって遮断されませんように。

リーンリーンリーンリーン。自分の鈴の甲高い音を聞きながら、さっきのひとの踏み跡を逆方向に辿っていく。このまま尾根を登って稜線にでれば、たぶん今頃はカタクリの花が咲いている頃だろう。
すれ違ってしばらくしてから立ち止まって、遠ざかっていく黄色いザックのほうを振り返ってみる。ガランガラーン。ガランガラーン。しーんとした山の斜面のむこうから、熊鈴の音が調子よく響いていた。

雨上がりの道

この木はあの小屋の裏山の木に似ているな。この色はあの森の色にそっくりだな。この土の感触はあの橋のところのくだり坂みたいだな。立ちどまる。森の中の音がぴたりとやむ。忘れることのできない遠くの森の気配がする。ひとけのない雨上がりの道の先のほうを茫々とながめる。それからまた足元をみて歩く。靴の中の爪先になんとなく意識を傾ける。木陰からこっちを見ている鹿がいた。

木の実

いつだったか、どこかの山の落ち葉の中から木の実を拾って、ちょっと前まで頭上の枝とつながっていたのであろう尻尾みたいな部分を右手でつまんで空にかざしたとき、こんな形をみたような気がする。そんな山。とんがり帽子のような簡素な山。ひとっこひとりいないだろうと思ったら、静かなひとがひとりいた。

梅の木

うなりをあげているかのようなのに、明るい。
低い声が響いてきそうな気もするけれど、にこにこと黙っている。

いつもの池のあたりで、草むらの中から見上げた梅の木の立ち姿。

お知らせ

東京の北の隅にある古い小屋に仕事場を移しました。
また落ち着いたらご報告します。

ひだまり

むらさき色の花の下で、小さなひだまりが午睡をしているみたいにじっとしていた。

カラス

今朝、古い本のなかで一羽のカラスが「ああ」と鳴いた。

「かあ」ではなくて「ああ」と捉えてみるだけで、カラスの存在はまったく違ったものに思えてくる。「ああ」と鳴くカラスの声からは、なんとなく乾いたブルースハープの音にも似たものが聞こえてくるような感じもする。

この1年ちょっとの間にそれぞれのひとの胸のうちにぼんやりと浮かんだ「ああ」というため息を積み重ねたら、どのくらいの高さになるんだろう。あるいはまた、それぞれのひとの前からかき消されていった「ああどうも」「ああ」といった類の会話を数えたら、いったいいくつになるんだろう。

いつもの池のところには今日はあんまりカラスの影はなく、黄色いショウブが水面を見つめて静かに咲いている。事務所にいって机に向かうと、窓の外がどうにも騒がしい。「はああ!はああ!」地べたから湧きあがるような野太い声を響かせて、どこか見えないところでしきりに鳴きつづけているカラスがいた。

古い日記

雨の日に、古い山の日記を読んだ。会ったこともないひとの書いた、行ったこともない遠くの山の記録。自分が生まれるよりはるかにむかしの深い森の中のこと。なにもない。なにも起こらない。淡々と綴られていたその言葉は、だけどどうにもなつかしかった。