カタクリ

「毎年ちょっとずつ大きな葉っぱをつけて、
早くて7年、多くは10年くらい経ってから、ようやく花をつける。」

誰にも気づかれないような枯れ葉の中に、今年もカタクリがぽつねんと上を向いて咲いていた。
きみはほんとうにすごいよなあ。

どんなに自分の姿勢を低くしてみても目の前にある小さな花を見上げることはできなくて、
そのことがカタクリの存在の気高さを証明しているように思えた。

大きな木

小さな山のうえの丸太に腰かけて、のんびりと時間をかけて珈琲を淹れる。

細く地味な植林のみちがつづいていく山のなかにあって、そのあたりだけは平らかにひらけていて、古い神社のやしろが祀られている。隅の方にはちょっとだけ視界がひらけたところがあって、ひとりのひとが草のうえに寝転んで昼寝をしていた。

珈琲を飲み終わって、お昼過ぎの太陽をあびて、それからザックを背負って、麓にある参道のほうへと、あんまりひとに歩かれていなさそうな細く暗い巻き道をくだった。巻き道の途中で、うしろのほうからさっきの昼寝のひとがさーっとおりてくる気配がして、細い道の脇の急な斜面に寄りかかって道をゆずった。

通り過ぎるとき「失敬」と小さく呟いた昼寝のひとは、猿のようなスピードで音もなく荒れた巻き道をくだっていった。そのうしろ姿はもうしばらく行くことの出来ていない遠い町の山のひとたちの背中に、どこか似ているような感じがする。

小さな沢の水をまたいで鳥居の見えるところまでおりていくと、とたんに視界がひらけて、左手に見たこともない大きさのカツラの木が立っているのが見えた。あっ、と思わず声がでる。樹齢500年。気の遠くなるような時間をこの場所ですごしたその木の根元には、ゴウゴウとたくさんの水が流れていて、その音の大きさがカツラの木の崇高さを途方もなく大きなものへと引きたてている。

山のなかで古い木や大きな木を見ると、何人かの大工さんの姿が浮かぶのはなぜだろう。きっとあの大工さんはこの木を見たら、こんなことを言うだろうなあ。あの親方はこの木を見たら、あんなふうな反応をするかもなあ。あの棟梁だったらたぶん、きっとこんなふうに。

その日もなんだかそんなことをぼーっと考えながら、もう遠くに見えなくなった昼寝のひとの背中を追いかけるようにして、てくてくと道をくだった。山の道はいつしか林の中の舗装路にかわり、誰もいない参道にはひっそりと桜の花が咲いていた。

切株のひと

なだらかな稜線のみちには、片側に明るい広葉樹の斜面がひろがっていて、シラカバやカラマツの姿がかわるがわる現れる。落ち葉の敷かれた地面は朝の日射しに照らされて白っぽく光ったり、ほんのりと赤く色づいたりしていて、そのむこうに蒼い山の連なりがのびやかにひらけている。

みちの反対側にはスギやヒノキの植林帯があって、時たま木々の合間からチラリと青い空が見えたりはするものの、びっしりと針葉樹の並んだ暗く重たい森が斜面の下の町のほうまで深く落ちていっている。

いくつかの小さなピークを越え、鞍部を過ぎ、次の山頂へとむかう急な登りがはじまるところに出ると、右手の斜面のほうでなにかの気配がする。なんとなくそっちを見てみると、道から外れた薄暗いスギ木立のなかに、切株に座っておにぎりを頬張っているひとの丸い背中があった。切株のひとの視線の先には、そのひとの背中と同じくらい静かな針葉樹の林がしーんと続いている。

あのスギを切ったひとは、自分の切った切株に座ってあんなふうに背中を丸めておにぎりを食べたりしたのだろうか。針葉樹の林の傍を通るとき、山の仕事の険しさや麓の村の厳しさをぼんやりと想う。自分の足元を通っている道は、いつだってそうしたもののうえに在るのだということを忘れないようにしたい。静かな背中をしたひとの手にあったおにぎりの白さが、なぜだかしばらく目の奥に残った。

峠のみち

峠の道として、遠いむかしの時間からたくさんのひとに踏まれてきたのであろう尾根道は、ホオノキや͡コナラの落ち葉がたっぷりと敷きつめられて、平らかで明るい。

バスのなかで眺めていた地図には、主要な道すじからそれたところに知らない名前の小さな山が3つほどちょこんと並んでいて、そのまわりになだらかな等高線がひろがっているのが見えたから、峠のみちをずーっと奥まで歩いていく前に、ちょっとそっちに寄り道をしてみることにする。

しーんとした小さな山頂は、北側と南側の木が切られていて、全部の方向にぐるりと風景がひらけている。笹尾根のむこうに丹沢の山々が重なって、真っ白な富士山や大菩薩の姿を横目に反対側を振りかえると、奥多摩の稜線が視界の隅の方までつづいている。

手前の木の合間をシジュウカラが楽しそうに飛んでいく。倒れた木のうえに橙色のチョウが舞い下りて、ゆっくり羽を休めている。寝そべった背中の下にあるササの枯れ葉がじんわりと暖かい。なんにもないけれど全部があって、自分はとにかくその邪魔にならないように、静かにじっとしているばかりだなあと思う。

輪っか

池のうえに虹のように架かった木の輪っかの下を、ひとりのカモがすーっと静かにくぐり抜けていく。オンボロの携帯カメラで写真を撮ったら、木のかたちに沿って眩い光の輪っかが写りこんで、カモの姿はその明るさのむこうにまぎれていってしまいそうだった。

今朝の池

いつもの池のところで見かけたユキヤナギの後ろ姿。

置いていく

「粉のうえに水を置いていくような感覚で、少しずつゆっくりお湯を注いでください。」

だいぶ前に買った珈琲の袋にたしかそんな言葉が書いてあったことを思いだして、一歩一歩、自分を置いていくような感覚で、1年前に歩いたのとまったくおんなじ道をてくてくと登った。

雨あがりのよく晴れたあたたかい日で、稜線にでるとすこし強めの風が吹いていた。富士の頂から白い雪煙が青い空を流れていくのが見える。シジュウカラがいろんな鳴き声をだしながら、木々の間を飛んでいる。ほっそりとしたたくさんの枝たちと地面をうめつくした枯れ葉があんまりにも真っ白で、その全面的な白さのなかに黄色い花がところどころで瞬くように咲いている。

山頂から、たぶん今日のこの時間には誰も通るひとはいないだろうなあ、と思う方向へと道をくだった。その道の先にある、あんまり名前の知られていない小さな山に寄ってみようかなとも思ったけれど、荒れた痩せ尾根を往復することになるからそれはやめて、道からそれたところにあったひろびろとした斜面に座ってお昼を食べた。

お湯を沸かしていると、痩せ尾根のあたりからカサカサと落ち葉を踏む音が聞こえる。ひとが歩いてくるわけはないから、動物かな、鳥たちのいたずらかな。そう思って斜面から道のほうをあおぎ見ると、すっと背すじをのばした女のひとがひとり痩せ尾根の方向から静かに現れて、まっすぐに前を見据え、地面を一歩一歩踏みしめながら、確かな足取りで山頂にむかって歩いていくのがみえた。

さっきまでの風もやわらいで、きのうの雨で湿った枯れ葉が春の日射しに焼かれていく匂いがする。足元の落ち葉の束を拾ってその下を覗いたら、小さな幼虫たちが「何の用ー?」と言わんばかりの寝ぼけまなこの表情でこっちを見上げた。詫びを言って、もう一度土のうえに落ち葉を被せる。まだ時刻はお昼前。沢のほうにくだっていく前に、このふかふかの斜面のうえでうたた寝をしていくことにした。

今朝の枝

ベランダの手すり壁にかわるがわるスズメたちがやってきて、小さな足を踏ん張って満開に咲いた雪柳の枝のほうを覗いている。ぷくぷくーっと身体を膨らませて羽の内側で暖をとり、ベランダとむかいの屋根のうえのアンテナを行ったり来たり。

ポーポーーポッポー、ポーポーーポッポー。

めずらしくアンテナのところに山鳩が飛んできて、スズメはちょっとだけ気まずそうに、隅のほうへ移動する。チュン。チュッピッチョ。スズメが鳴いて、アンテナを足で蹴り、東のほうへと飛んでいく。山鳩はすっと背すじをのばして、西の空をまっすぐに見据えている。凛とした静かな横顔だった。

ゆきやなぎ

今朝のベランダ。葉っぱのなかにまぎれて、たくさんの細い枝たちと一緒に、空にむかってふーっと深呼吸をしながら背すじをのばすような気持ちで、撮った。

ありふれた時間

よく晴れた朝。

事務所に行って、仕事の用事がひとつ終わって、午前10時。窓の外のイチョウの木を見あげる。机の横からふわりと入ってきたやわらかい風を感じて、そうだ、やっぱり金田さんの写真を見にいくなら、風のないあたたかい、のほほーんと春めいた平日の真昼間。それに限るなと思って、事務所をでた。

菜の花が咲いた土手を横目に、緑道のみちをてくてくと歩いて電車に乗る。岩本町まで行ってから、御徒町にある展示の場所まで、20分少々。あたたかい陽気につつまれた町のなかをのんびりと歩いていく。
橋のところに桜が咲いていて、その鮮やかなピンクの色が水面に淡く映りこんでいるところを1枚写真に撮る。川の真ん中あたりの空中を気持ちよさそうに羽をのばした鳩が静かにすべっていく。春色のコートを来た女のひとや、スーツを片手にかかえた男のひとが、橋のむこうから歩いてくる。

イヤフォンの中では、若かりし日のグレゴリー・アイザックスが歌うゆったりとしたロックステディがはじまって、グラッドストーン・アンダーソンのピアノがやわらかい旋律を奏でている。
脇道にそれて、そこからまっすぐ、日の当たる道を北にむかって歩く。途中、何度か行ったことのある飲み屋さんの前を通り過ぎながら、あーそういえばあのひととは全然飲めてないなあー、あの時このあたりで飲んだ同級生たちとは結局あれ以来会えてないなー、なんて思う。

ズンチャズンチャ、ジャーン。

もう50年以上も前の遠いジャマイカの古びた音質のドラムとギターのリズムが途切れて、グラディの甘いピアノが鳴りやんだ。そろそろかな、もうこのあたりかな、と思って前を見ると、白っぽい砂の敷かれた小さな公園があってその横が目的のお店だった。

お店に入って小さな展示をゆっくり見て、珈琲の香りをかいで、それから店内をふらふらと歩きまわってから、次の写真館の告知が書かれた紙を1枚手にとった。

外に出て、お店の前の公園に戻って、ベンチに腰掛ける。真昼の日射しがぽかぽかとあたたかい。ザックの中に入れてきた水筒の紅茶を飲んでいると、3羽の鳩がランランと目を輝かせて一目散にこちらにむかって駆けてくる。なんにもないよー、食べ物はなんにも持ってないよー。そう心の中で呟いて、鳩の背中に影を落とす木のほうを見あげると、ほっそりとした大島桜が立っていて、あ、ここで写真を撮るのも良いかもなと思う。さっきの紙を取り出してみる。

そうしたら、西の方角からゆるやかな風が吹いてきて、薄い紙が桜の木の下にふわりと舞った。

たぶん、金田さんの写真のいいところは、そんなふうに、なんとなく続いていく、なんてことのないふつうの毎日の、ふつうの時間の、ふつうの感覚のなかに、その写真が存在できるところ。写真を見るために、特別な感情になったり、腕を組んだり、たいそうな思いをいだいたり、背伸びをしたり、肩に力を入れたりする必要がないところ。てくてくと春めいた気分で歩いてきた、そのふわふわーっとしたなにげない気分のまんまで、いられるところ。

見る前も、見た後も、撮る前も、撮った後も、その写真の前後にはどこかの誰かのなにげない時間が途切れることなく流れていて、そのありふれた日々の中に、さりげなく、すーっと、まぎれこんでいけること。

頭のてっぺんから靴の先まで。それぞれのひとの全身がゆるい構図の中にすっぽりと自然体でおさまっているところを見て、「ひとの姿をトリミングしたり、切ったりしたくないんだよねー」とかそういえばいつか言ってたなー、なんて思いながら、来た時と全く同じ道を岩本町までてくてくと歩いて戻った。
それから電車に乗って、線路の上を揺られながら戻っていくうちに、さっき見た写真の印象は早くもぼやけはじめてきて、うとうととうたた寝をしてしまう。ふわり、ふわり。ガタン、ガタン。ガタン、ガタン。

あっ、と気づいて目が覚めると最寄りの駅についていて、ホームに下り、土手に咲いた小さな白い花を眺めながら真昼間の緑道をまっすぐに歩く。それからつい数時間前まで座っていた事務所の机の前に帰ってきて、午後1時ちょっと前。水筒の紅茶をすすりながら、とりたててどうということのない今日の数時間のことをなんとなく言葉に残しておこうかなと思って、いま、これを書いた。

ゼロ

列車をおりると、ガランとしたホームにザックを背負ったひとがひとりだけ見えた。

そのひとを駅の外でそーっと追い越して、集落の脇から小さな道に入る。古い鉄門の横をくぐると、右のほうに樹木のない剥げた土の斜面が大きくひらけていて、そのはるか上方で何本かの木がまるで淡い虚構の中に立っているかのように、空を背景に一列に整列して並んでいる。

沢沿いの荒れた道。貯水池。倒木。つづら折りの急斜面。落ち葉。白っぽく光る土。砂まじりの斜面。枯れ木。鳥の声。水色の空。風の跡。それからまた急斜面。思わず膝に手をついて、しばし息が整うのを待つ。心臓の音、斜面を落ちていく乾いた砂の音。

下を向き息を切らしながら、どうしてこんなにも軽やかなのだろう、と思う。心臓の大きな音がやまないのに、どうしてこんなにものんびりとした心地になっているのだろう。

歩くことは無くすこと。ゼロになること。
1年前のちょうど今頃の、なんてことのない小さな山の斜面で感じたこと。

ミモザの頃

サックスを手にしたひとが、いつもと同じ場所で、いつもと同じ曲を、いつもと同じように、いつもと同じ演奏者たちのなかで吹いた。

前に聞いた時とのかすかな違いは、その間に流れた時間、その間にそのひとが積み重ねた生活。何も変わっていないかのようで、変わっていってしまったもの。誰も気づかないほど小さくて、誰にも見えないほど大きなもの。サックスを構える腕のむこうに、そのひとの過ごしたなにげない日々が見えたような気がした。このひとはひとりで吹いているんだと思った。

まわる

小さなネジをラチェットの先端に載せて、目の前の板にぐいと押しつける。それからそれを右手を使ってまわしていく。ギーギーという音。手のひらに伝わる板の固さを感じながら繰り返し、普通に、黙々と、ラチェットの頭に左の指を添えながら右手をまわす。

それぞれの工具の形と機能を一番最初につくりあげたひとが誰なのかは全く分からないけれど、ラチェットを最初につくったひとは本当に偉大だなと思う。ラチェットのない人生とラチェットのある人生があるとしたら、自分は迷わず後者の方を選びたいなあ、なんていうくだらないことをこの前ふと考えた。

自転車での帰り道。ペダルを踏みこんで、おだやかな坂道をのぼる。自分の足元で、暗闇のなかで車輪がまわる。くるくると同じ軌道を描きながら地面のうえでまわるもの。淡々と。くりかえし。日々のように。

朝。川沿いの道では白やピンクの鮮やかな色があちこちで生まれて、メジロとシジュウカラがヒヨドリの襲撃を避けながら、枝から枝へと賑やかに飛びまわっている。部屋から見える公園の木では、相変わらず1本の枝だけが他よりも伸びすぎたまま空に浮かんでいて、その枝にオナガの群れがやってくる。ベランダのユキヤナギが今年もたくさんの白い輪をふわふわと浮かべて、あたたかい風のなかに咲いた。

「まわす」とか「まわる」ということのなかには、ひとの心に静けさをもたらす何かが潜んでいるのかもしれない。反復すること。まわっていくもの。真夜中、コーヒーを淹れに台所に立つ。湯を沸かす。それから豆を挽く。ゴリゴリという音。豆の固さ。ミルをまわす右手が寒さでかじかむことは少なくなってきた。

陰り

路に、思わずゾクっとするような深い陰りが落ちていた。

どこか「ひと」の内面を思わせるような印象的な陰りの先に、繊細な格子で組まれた木製の門があって、その隙間からむこうの庭の色鮮やかな紅葉が透けていた。去年の秋。古いお寺の境内で。

だれかの花束

裏山で切ってきたのであろう竹の鉢、無造作に入れられた花束、それらの花が明るい方を見上げている様子、蒼い影、風の跡、枯れきってうなだれた葉っぱ。そうしたものたちの醸し出す何かになんとなく目を奪われ、ちょっとだけホッパーの絵画を想った。どこかの街の片隅の、知らないだれかの花束。

白っぽい月

この前のよく晴れていた日。

早朝の川沿い道では、白梅の花をめぐってヒヨドリとメジロが喧嘩を繰りひろげ、ムクドリがキュルキュルと鳴いていて、何羽かのツグミが我関せずと早足で地面を歩いていた。「トコトコ歩いてスタッと止まる。」鳥の本に書いてあったそんな可笑しみのある擬音語を、ツグミたちは忠実になぞっていく。

夕暮れ時、懐かしい駅にいく用事があって、ついでにむかし何度も通った大好きな中華屋さんの前まで本当に久しぶりに行ってみて、暖簾の向こうの様子を確かめてから、歩き慣れた坂道をくだった。

支度中の中華屋さんにはあの鉄鍋のコンコンという音は響いていなかったけれど、今でもその音、親父さんが静かな店内で鉄鍋をふるうその生き生きとした音にカウンターに座りながらひとり感動した遅い午後の時間のことを、自分は確かに思い起こすことができる。

中華屋さんのまわりには、あの頃から今の日まで、自分の知らないところでたくさんの時間が流れたのだろうと思う。にもかかわらず、変わらぬ暖簾と変わらぬカウンターがこんな年のこんな日にも、今でも変わらずにそこにはあって、それを見た自分はあの鉄鍋の音を聞いていた時のことを思い出すことができる。

自分の知っているところで流れた時間に対してよりも、自分の知らないところで流れた時間に対して、より多くの敬意を払うこと。ニコライ堂の古びたドーム屋根のうえに下半分を空に浸食された白っぽい月がとろんと漂っていて、坂道の脇にはピンク色の鮮やかな花が咲いていた。

ローズマリー

表現という言葉はあんまり好きな言葉ではないけれど、今でもまだ何かしらかの表現というものが残っているとするならば、それは「なにを見せたか」ではなく「なにを見せなかったか」ではないかと思う。

なにを言ったかではなくて、なにを言わなかったか。
そのひとはどんな言葉をのみこんで、黙ったか。

地味なもの、静かなもの、押し黙ったもの。
そういうものの背後に在るものこそが、きっと何よりも大切にしなければならないものなのだろう。

写真は、ベランダで育ってくれたローズマリー。
葉のかたちにはどことなく雨の尾根に立つ針葉樹を思わせる鋭さがあって、平日の朝だというのになんだか山に行きたくなる。朝日のなかに緑の色が深く沈んで、机のうえに鈍い光沢がぼーっと浮かんだ。

主語

自分が主語にならない言葉、自分が主語にならない空間、自分が主語にならない記憶。もしそれがあったとしたら、それはきっと真っ白で明るいものなんだろうなあー、などと訳のわからぬことをぼんやりと空想する。でも勿論そんなものは一切どこにも無いわけで。

川沿いの道では、去年の秋に真っ白な表情で風に揺れていた草がすっかり枯れた色を身にまとい、じんわりと赤っぽく光りながら、水のしずくを蒼く滴らせていた。あんまり風は吹いていない夕方で、春めいた空気のなかに、ちょっと夏雲を思わせるようなモコモコとした雲がひとつ、ふわりと浮かんでいた。
「良い天気になったね。」小さな子供をつれたひとの声がどこか道のむこうのほうから聞こえて、ヒヨドリが前方を見据えてまっすぐに夕暮れの空を飛んだ。

誰かの朝

片足を春の海につっこんだような朝。
川沿いの道のロウバイの花は盛りを過ぎ、冬に大きく枝を落とされていたウメの木は無事に白い花をつけて、咲いたばかりの河津桜の花の蜜を2羽のメジロが半分夢の中にいるような表情で美味しそうに頬張っていた。池のほとりでは真っ黒なカラスがひとり、地面の落ち葉をクチバシの先で懸命にかきわけて、土の中に隠した何かを探していた。すぐそこの茶色い地面のうえをツグミが早足で駆けていった。

今日の夕陽

雨あがり。いつもの川沿いの道の水たまり。