姿勢

ケツは低く、志は高く。

たしかシカゴの地下音楽について書かれていた小さな文章の中に、そんな言葉を見つけたのは、もう四半世紀くらい前のことだったかもしれない。

ココロザシというやつはなかなかに厄介な代物で、ココロザシを高く持たんとするニンゲンのケツは、いつだって宙高く浮き気味だ。かく言う自分にココロザシなんてものがあるのかは分からないけれど、自分のケツの低さにはいつだって自信がない。もっと低く、もっと低く。そう思い続けても、大きなココロザシらしきものに惹きつけられた身体はふわふわと浮き上がり、折れ曲がっていたはずの2つのヒザは重力を忘れて能天気に伸びあがって、靴底はいつしか地面を離れて元いた場所を見失う。

ココロザシは目に見えないものだから、言葉をうまく取り繕えば、その高さらしきを誰かに伝えるのは案外にたやすい。一方で、ケツの低さを取り繕うのは難しく、毎日の暮らしの中で養われた姿勢が、そっくりそのままそのひとのケツの高さにあらわれてしまう。

ニンゲンというものは、目の前のひとの顔上に浮かんだ煌びやかなココロザシにまずはどうしたって目を惹かれるものだから、そのひとの裏側にあるケツの高さが見えてくるまでには、暗闇の山の月明かりの下にぼんやりと道が見えてくるようになるまでの時間と、概ね同じくらいの時間が必要になったりもするかもしれない。

街でも山でも、あるいは海の上でも、ケツの高さを変えると見えてくるものの景色はガラリと変化する。展望台から見下した森は明るく開けているけれど、彷徨い歩き、途方に暮れて座りこんだ森の底から見上げたそれは、どこまでも暗く深い。

ケツの低さは一瞬の動作で取り繕えるようなものではないから、ひとが見ることのできる景色は、そのひとの日々の暮らしの姿勢によってさまざまに違っている。だから、そのようにして見えている景色の違いは、そのひとが持っているかもしれないココロザシの種類にもきっと大きな影響を及ぼしているんじゃないかと思う。

「唯一わたしがやりたかったのは、人々に笑いという救いを与えることだ。ユーモアは人の心を楽にする力がある。アスピリンのようなものだ。」(カート・ヴォネガット)

未来を快適にするビタミン剤やたくさんの環境を豊かにする肥料をつくろうとするひとと、それを手にすることのできない誰かのための鎮痛剤にならんとするひと。それぞれのひとのケツの低さは、例えばどのくらいだろう。

小屋のトネリコが午後の光のなかでウトウトと午睡をしていた。