土に座って

編集者・平良敬一さんが亡くなられたのを知った。
もう1か月ほど前のことだという。

平良さんが編集された本にはじめて触れたのは、10代の終わりの頃。
ちょうどある古びた集落の跡を辿るためにいろいろな場所を訪ねていた頃のことで、東京駅からの高速バスを待っている間に立ち寄った八重洲ブックセンターで、一冊の本を買ったのが最初だった。

『日本の集落』というタイトルがついたその本は、高須賀晋さんの文章と畑亮夫さんの写真によって構成されたもので、自分がその時買ったのは第3巻、九州や沖縄の古い集落についてのものだった。

その本を買った日の八重洲ブックセンターの中の光景、空気感、それからその本の置かれていた棚の雰囲気。そんなものを今でもはっきりと思いだすことが出来るくらい、その時に買った本の衝撃は確かなものだったし、その衝撃はそのあと長いあいだ自分の中で持続することとなった。

その本は今でも『日本の集落』の第1巻や第2巻、あるいは同じく平良さんが編集された『高須賀晋住宅作品集』や『住宅建築』誌の別冊などのたくさんの本と一緒に、事務所の机の一番良い場所にきちんと並べて置いてある。

なんというか、物事というのはどうにも複雑なものだから、あまりに単純化して言うことは難しいけれど、しかし、たぶんその本に出会うことがなければ、その後、九州や沖縄の離島を訪ねることはなかっただろうし、各駅停車に乗って各地の古い場所をふらふらとひとりで旅するようなこともなかったかもしれないなあ、といま思う。

少なくとも、いま自分が木の建築に惹かれたり、山や森を歩いたり、津南町を訪ねたり、手書きで図面を描いたりすることの要因のひとつにその本があることは、おそらく疑いようがない。

その本の、押し黙った重心の低い言葉たちや、ギラリと鈍い光を放つモノクロ写真たちの中には、平良さんがいろいろなところで書かれていた「場所」とか「共同体」というものの現実と、その厳しさや確かさが実にうまく表現されていて、そのページのむこうからはどこか「地べた」に座りこんで語りあう人たちの声のようなものまでもが、かすかに聞こえてくるかのようだった。

土に座って、それからふと空をあおいでしまうような瞬間というのは、きっと誰にでもあって、その時に自分の身体を最も低いところで支えている「地面」を、土にまみれた「場所」そのものを、確かな手ごたえを持って感じとることが出来るかどうか。

そのことを時に自分自身に問いかけながら、これからも平良さんの遺された本たちを低く、静かに、読み継いでいけたらと思います。