余白

「眺望が良い」ということの良さが自分なりに理解できるようになったのは比較的最近のことで、それまでは山や森はその内部に入りこんでいけるからこそ素晴らしいのだと感じていた。そんなふうにしてふらふらと内側を歩きまわることばかりを楽しんでいて、あれはいつ頃だっただろうか。あるとき、それほど都会から離れていない場所にある小さな山に登った時に、ふいに冬枯れの林のむこうに東京の街並みが霞んでみえたことがあった。

その山はたいして高い山ではなかったから、そこから見える街並みは、どこか高いところからそれを見下ろしているという感じはなく、その街と自分との間にたっぷりと大きな余白があって、その余白をはさんで遠くから水平に街を眺めている、という感じがあった。高さの違いがすくないぶん、距離の感覚が際立っていて、むこうの街と自分との間を低い光に真っ白く照らされた冬枯れの枝たちが一面におおいつくしていた。

そこから見えたむこうの街では、たぶんたくさんの誰かが今日もせわしなく仕事に追われたり、なにかを考え込んでみたり、あるいは自己を主張し合ったりしているのだろうと思われたのだけど、ついさっきまでその真っ只中に居た自分自身と、その街との間にある十分な余白、たっぷりとひらけた距離が、なにかそういった日々の重々しいあれこれを大らかにすいこんで、ふーっと軽い空気に変えて息をはきだしてくれているような、なんだかそんな明るい感じをその時の自分は覚えたのだった。

山や森のかたちをした大きな余白がふーっとゆっくり呼吸をするたびに、さっきまで肩に入っていた無駄な力がゆるゆるとほぐれて、ふんわりと軽やかな雰囲気に満たされていく。その息づかいをうっすらと身体に感じているうちに、むこうの街にいるひとたちのひとりひとりにまっさらな気持ちで素朴にむきあうことが出来るようにも思われて、なるほど眺望というものはつまりそんなようなわけで素晴らしいものなのかと、遅ればせながらその時はじめて気がつくことになったのだった。