とりかえしのつかなさ

ふつうに暮らしていると、だいたいのことはいつも決まってとりかえしがつかない。

観葉植物を枯らしてしまったこと。山を歩いて何かを踏みつけてしまったこと。ラーメンに胡椒をふりすぎてしまったこと。珈琲をこぼしてしまったこと。大事な友人の展示を見逃してしまったこと。歯が欠けてしまったこと。誰かが嫌だなあと感じるようなことを言ってしまったこと。

小さなことであれ、そうでないことであれ、水のようにすーっと流れ去っていく時間のうえでは、だいたいのことはおおむね、とりかえしがつかない。

ひとは誰だって日々とりかえしがつかないことをしているのだと実感するからこそ、何かをしようとする時にそれが大事なことであればあるほど、そのことにしっかりと向き合って、そのことに集中して、それから自分が「これだ」と思う何かを慎重に責任をもって行動に移すのではないか。

それは本当にふつうのこと、毎日の暮らしの場でふとした瞬間に感じるふつうのことで、暮らしの場所から仕事場に行って机にむかって自分の手で図面を描くときも、そんなふうな普段の感覚と同じ感覚の中で図面を描いていたいなあという気がする。

紙のうえに溢れた錯綜する鉛筆の線をひとつでも消すことは、容易なことではない。ひとつの線を消しゴムで消すと、ほかの線も消えてしまう。生半可な気持ちで紙の上に描いてしまった線は、本当にとりかえしがつかない。だから1本の線を大切にする。大切に引く。その1本の小さな線のことをしっかりと考えて、そのことに意識を集中させて、それから机のうえに三角定規を添えて一気に手を動かす。そのことの中に、小さくはない手ごたえがある。

ふつうに毎日を暮らしていることと何かをつくっていくことが、別々の地平のうえではなく、同じ地平のうえで当たり前のように繋がっていたら良いのになと思う。