色のない森

山に棲む生き物たちは、その場所の意味や価値をどのくらい色によって判断しているんだろう。
いつだったか、製図板のうえで鉛色の線をひく手を休めてぼんやりと山のことを思っていた時、そんなことを考えたことがあった。

山や森を歩く時、ひとはどうしてもその全体や細部がつくりだす色に惹かれ、色に引きずられてそれを眺めてしまう。暗い蒼につつまれた霧の森。深い緑に覆われた晩夏の巻き道。明るい暖色に満ちた沢沿いの紅葉。その場所を思い起こそうとする時、記憶の中の森はいつもなんらかの色によってつつまれている。

そんなふうにして歩いた山の写真から、試しに色を消してみる。すると一瞬のうちに写真の上にそれまでとは全く違う容貌が浮かびあがってくる。そのモノトーンの写真と、記憶の中のカラフルな森の像との間に生じる小さくはないズレは、普段自分がいかに色に引きずられてモノを眺めているのかをあらためて浮き彫りにする。そのズレはたとえば単色の図面と、それによってつくられた建物との間のズレに、どこか少しだけ似ているような気もする。

その季節のその場所に固有の色に彩どられた森にしか浮かびあがらない美しさがあるように、単色に変換された森にしか浮かびあがってこないものもある。それは視覚的なものというよりは、どこか触覚的な世界、手にふれるものの感触と耳を渡っていく音とが生みだす触覚的なものであるような感じがする。色が消されたことと引き換えに、その背後に見えてくる豊かな何かがある。でも、それを言葉で説明することは、今の自分にはまだまだ難しい。

画面にうつる色のない森で、何かがさざめく。
獣道が木々の間を縫ってどこかに続いていく。

自分のような人間には獣たちの歩いた細々とした道の跡をどこまでも追いかけていくことは出来ないけれど、その道の行方を眺めながら、彼らがきっと自らの足裏や耳の奥で感じとっているのであろう山の姿を、静かに想像してみる。目を閉じて、視覚以外の感覚をそばだてながら、その山の手触りのようなものを想像してみる。その手触りはどんなだろうか。その山に色はあるんだろうか。