トタン板

「『この屍、どうにも手に負えなんだのう』トタン板をかいて来た先棒の兵がそう云うと『わしらは、国家のない国に生まれたかったのう』と相棒が言った。僕がこの場で聞いた人間の声は、トタンかきの2人の兵が交したこの言葉だけである。」

古いノートに書きつけてある『黒い雨』の一文が、今日たまたま目に入った。幼い頃、教科書かなにかではじめて鱒二のその小説を読んだ後、湯船につかりながらその静けさをぼんやりと想像してみたことを、ふいに思い出した。

山の道をつくった人

山に道があるから、そこを歩く人は花や木を見ることができる。山に道があるから、ひとは風景を自分の足で見つけることができる。道が、そこを歩くひとに道ばたの花や木の素朴な価値を伝える。

たった1本の道が、何千もの風景をうみだす。
たった1本の道が、ひとをどこか遠くの場所へと連れだす。

その1本の道をつくるために、たくさんの思いや生活が注ぎ込まれる。いくつもの手がその場所の土を突き固める。谷に木を渡し、石をならべる。それからその道の上を数えきれないほどの足が歩いていく。たくさんのひとがその道の跡を辿っていく。

その過程で、長い時間のなかで、その道をつくったひとの存在や思いはたくさんの踏み跡の背後にすーっと消えていき、ついには道そのものの存在さえもゆっくりと消えていって、風景だけがそこに残される。

細く長くのびていく山の道を歩いて、その道をつくったひとのことを考えた日があった。目の前につづいていく踏み跡の、その奥深くに消えたもののこと。この道をつくったひとたちのように、建築をつくっていけたらなあと思った。

森の底から。空をあおいで。

立ち姿

どこがいいのか言葉にするのは難しいけれど、これは自分的には好きな写真のひとつ。
ちょっと笑ってしまうくらい、見事にこんがらがっていらっしゃる。。。可笑しみと哀愁さえ感じるこんな立ち方もまた、人みたいでいいな。tungled up in white。

骨格

雨の日。風の中で立ち枯れた1本の木が、あまりにも崇高で、近くで見上げることを思わず躊躇ってしまうほどだった。こんな骨格をたずさえた建築を、一度で良いからつくってみたいと思った。この木のように立てたら、どんなに素晴らしいだろうなと思った。

静かなところ

ただ奥へ奥へと道を歩くと鎮まるものがあるように、図面を描くために手を動かすと鎮まるものがあって、良いなと思う。そんなわけで、たくさんの線と数字で埋め尽くされた鉛色の図面を描いていると、まるで深い森のなかを彷徨っているかのような気分になることも、時にはあったりもする。些細な空想。

若い頃よく読んだ小説のひとつに「緑したたる島」という名前の短編がある。
小説の内容そのものも勿論とても好きなのだけれど、そのタイトルがそれ以上に本当に素晴らしい。

「緑」も「したたる」も良いのだが、なんといっても「島」がいい。
もしあの短編のタイトルが「緑したたる町」とか「緑したたる森」とかであったとしたら、その魅力は自分にとっては半減してしまいかねない。

「緑」が「したたる」のが「町」や「森」のような確たる場所ではなく、「島」というどこか遠くの儚い場所、流れ着く場所であるからこそ、現実世界から切り離された孤立したもののイメージがぼんやりと浮かんでくる。「島」という言葉に水や波のさざめくイメージが含まれているからこそ、「したたる」の言葉が生き生きと意味を帯びてくる。「島」という言葉にはどうやら自分を惹きつける不思議な力がある。

、、、というような、なんだか誰にも伝わらなさそうなことを、事務所へむかう玉川上水沿いの緑道を歩きながら考えた。雨の日の薄暗い湿原の池糖や浮島をぼーっと眺めに行きたいなあ、と梅雨空の下で思う。

背景

花を見る時に、その花の背景の暗がりのようなものに目がいくことがふえた。
なぜだろう。この花の背景も、なんだかとても静かだった。
寡黙な暗がりにささえられた、儚い幾何学のような明るい花。

わからない

わからないものは、わからないままでいい。わからないものを、わかったふりをして、わかったことにしてしまうことは、できるだけ避けたい。わからないものを、わからないままで「なんだか全然わからないけれど凄い!」と言えるままでいたい。

深夜。ある古いSFの短編を久々に読んだ。10年ぶりくらいに読んだ。

それは今の自分にも相変わらず全くよくわからないままであり、そして全くよくわからないくせにやっぱり震えがくるほど素晴らしかった。10年前とほとんど同じように、頭のなかに意味不明の電気的な稲妻のようなものが浮かんで消えた。目の前を言葉が疾走して、ホワイトアウトした砂浜の上で、はじけ飛んだ。なんだか少しホッとした。

わからないものは、わからないままでいいし、できることなら、わからないままでいたい。

ラーメン屋さん

いつだったか、最近のことではあるが、ラーメン屋さんのことを考えた日があった。自分がたまに行くラーメン屋さんの中に、たった1種類のラーメンの味だけを突き詰めている店があって、その店のひとのことをおぼろげに考えた日があった。

たったひとつのメニュー、たった1種類のラーメンの味を研究し、微調整をくりかえし、磨きあげ、つくりつづけることの中に、そのひとの生活があるということ。
あるいは、たったひとつの事を目指し、思い、つづけ、成し遂げ、きわめる、ということの中に、そのひとの人生があるということ。

たったひとつの事をやり続け、そのつくりかたを試行錯誤し、その先にあるたったひとつの味に思いを馳せ続けることのできるラーメン屋さんは、こころの奥が静かなひとでもあるのだろうか。。時にその静けさがスープの中に写しだされているかのように思えるのは、気のせいだろうか。。

などということを、なぜだかその日は考えた。たったひとつの事をつづけるということの尊さを思った。それはどんな表現でもどんな仕事でも、あるいはきっと建築でも、同じだろう。つづけること。ラーメン屋さんのように、ひとつのものを見上げて、つづけること。

だれもいない

山や森の奥で、古い集落の奥で、だれもいない場所を探すのはたやすい。
そうした場所への経路が絶たれたとき、だれもいない寡黙な場所を、どのようなところに見いだすか。どのようなものの中に見いだすか。

遠くのどこかを憧れるよりも、いま自分の目の前にある小さな風景のなかに入りこんで、そのありふれた風景のなかに、あるいはその向こう側に、そんな場所を見つけられたら良いのになあと思う。しかしそれは、めちゃくちゃむずかしい。。。

ありふれた小さなものの中にある静かなところ。脳みその中のひとりだけの宇宙。
久しぶりに、SFが読みたくなってきた。

ことばの角度

どんな言葉を言ったかということよりも、どんな角度からその言葉を発したか、どんなところに自分の重心を置いてその言葉を言ったか、がまずはなにより重要なんじゃないか。

どんなところから、どんなところを見据えて、しゃべったか。書いたか。考えたか。言葉の角度。それを言うひとの重心の低さ。見上げるものの高さ。

ものを言う角度には、そのひとの本当があらわれるときがあって、その言葉の内容よりもその言葉の角度のほうに、強く心を惹きつけられることがある。

道の写真

たとえば、ただの道を写した写真があるとして、
それを写したひとが、それまで歩いてきた道を振りかえって撮った写真なのか、これから歩いていく先の道を撮ったものなのかが、分かる写真が好きだな、と思う。

その道がそれを写したひとにとって、どんな道なのかが分かる写真がいい。それから、その道がどんなふうに歩かれてきた道なのかが分かる写真がいい。

それは写真だけではなく、表現にまつわる全てのことに当てはまることに違いない。などと思ったりもするのだけれど、それをどのように言いあらわして人に伝えたらよいのかは、相も変わらずさっぱり分からないままである。。

山の桜

今年はいろいろな場所にヤマザクラを訪ねにいこうと思っていたのだけれど、それは叶わぬまま、いつの間にやらすっかり春の時間は過ぎ去って、季節は早くも梅雨。
冬に行った小さな山々で「このあたりの桜が咲くところを春になったらまた見に来よう」とひとり密かに思っていたあの桜たちは、急斜面の途中や尾根道の傍らで、いったいどんな花を咲かせたのだろう。。
平地とは違う自然環境の中で、風雨の痕跡をその身に映しながらじっと立ち続ける樹木がほんの一時咲かせる花には、やっぱり心惹かれるものがある。

プミラ

植物が何かを感じて、それを姿やかたちに反映させる瞬間には、「かたち」が生まれる直前の生き生きとしたなにかが宿っているような感じがする。

春を感じて芽吹きをはじめるとき、風を感じてかたちを変えるとき、影を見つけて動きはじめるとき。
そこには「かたち」のはじまりにある素朴な感情のようなものが、確かな意思を持ってうごめいている瞬間があるような気がして、なんだか全くよくわからないまま、その瞬間が通りすぎてしまう前に、その場面をとにかくまずは記録しておかねばと思うことがたまにある。

んー、でも、言葉にするとやっぱり全然よく分からない。。

写真は今年の春先に枯れてしまった机の上のプミラの、冬頃のすがた。
地面を感じて、小さな力を振りしぼりグッと上を向きはじめたところ。

ひとが「かたち」をつくろうとした時にどうしたって入りこんでしまう「自意識」とか「恣意性」のようなものが、さーーっと消え失せたところで生まれる「かたち」に、憧れる。

土に座って

編集者・平良敬一さんが亡くなられたのを知った。
もう1か月ほど前のことだという。

平良さんが編集された本にはじめて触れたのは、10代の終わりの頃。
ちょうどある古びた集落の跡を辿るためにいろいろな場所を訪ねていた頃のことで、東京駅からの高速バスを待っている間に立ち寄った八重洲ブックセンターで、一冊の本を買ったのが最初だった。

『日本の集落』というタイトルがついたその本は、高須賀晋さんの文章と畑亮夫さんの写真によって構成されたもので、自分がその時買ったのは第3巻、九州や沖縄の古い集落についてのものだった。

その本を買った日の八重洲ブックセンターの中の光景、空気感、それからその本の置かれていた棚の雰囲気。そんなものを今でもはっきりと思いだすことが出来るくらい、その時に買った本の衝撃は確かなものだったし、その衝撃はそのあと長いあいだ自分の中で持続することとなった。

その本は今でも『日本の集落』の第1巻や第2巻、あるいは同じく平良さんが編集された『高須賀晋住宅作品集』や『住宅建築』誌の別冊などのたくさんの本と一緒に、事務所の机の一番良い場所にきちんと並べて置いてある。

なんというか、物事というのはどうにも複雑なものだから、あまりに単純化して言うことは難しいけれど、しかし、たぶんその本に出会うことがなければ、その後、九州や沖縄の離島を訪ねることはなかっただろうし、各駅停車に乗って各地の古い場所をふらふらとひとりで旅するようなこともなかったかもしれないなあ、といま思う。

少なくとも、いま自分が木の建築に惹かれたり、山や森を歩いたり、津南町を訪ねたり、手書きで図面を描いたりすることの要因のひとつにその本があることは、おそらく疑いようがない。

その本の、押し黙った重心の低い言葉たちや、ギラリと鈍い光を放つモノクロ写真たちの中には、平良さんがいろいろなところで書かれていた「場所」とか「共同体」というものの現実と、その厳しさや確かさが実にうまく表現されていて、そのページのむこうからはどこか「地べた」に座りこんで語りあう人たちの声のようなものまでもが、かすかに聞こえてくるかのようだった。

土に座って、それからふと空をあおいでしまうような瞬間というのは、きっと誰にでもあって、その時に自分の身体を最も低いところで支えている「地面」を、土にまみれた「場所」そのものを、確かな手ごたえを持って感じとることが出来るかどうか。

そのことを時に自分自身に問いかけながら、これからも平良さんの遺された本たちを低く、静かに、読み継いでいけたらと思います。

それがほとんどの人には届かない声だとしても、
自分には聞こえる自分自身の声がある。

ある海外の音楽批評家の人がずいぶん昔に言っていた言葉。
今日、その言葉をふと机の上で思い出した。
たとえそれが誰にも伝わらないとしても、自分だけのこだわりを心の底にじっと持ちつづけていたい。

歩くこと描くこと

自分の足で山や森を歩くことと、自分の手で図面を描くこと。
そのふたつは、似ている。
時には、ほとんど等しいくらいかもしれない。

最近、明らかな実感をもってそんなことを思うようになった。
どちらもそれをしている間は頭の中がさーっと澄んできて、無心になる。
空っぽになった頭の上を、いろいろな空想が風のようにかすめていって、気がつくとどこかに消えている。

どちらもそれぞれ、歩ききることや描ききることが取り急ぎの目標ではあるのだけど、その目標が完了する前の、途中段階や過程の中に、自分が心を惹かれる瞬間があるような感じがする。自分の足を動かして山の中に入りこんでいくことと、自分の手を動かして図面の中に入りこんでいくことは、とてもよく似ている。

車やロープウェイで行けば手軽にたどり着けるような場所に、わざわざ息を切らせて歩いていくことの徒労と、コンピューターで描けば手軽に描ききれるような図面を、わざわざ手を黒く汚しながら何度も下書きし描きなおしていくことの徒労。

その無為、無駄、無意味さが、いまこの現代の中で消し去られた小さな何かをきらりと際立たせる瞬間が、ぼんやりと、でもたしかにあるような気がする。こんな状況で、山にはしばらく行けていないけれど、机の上にシャープペンシルとトレーシングペーパーと三角定規さえあれば、これさえあれば、何とかなる。

いや、でも、山には、行きたいな。。。

いれるもの

3月。最終日にぎりぎり間に合って行くことが出来た友人の展示。
置かれていたモノも空間の雰囲気も、どれもとても感じがよくて、こんな良い展示ができて羨ましいなあと思うような、そんな展示だった。

展示されていたものの中で、どれを購入させてもらおうかいろいろと迷って、悩みに悩んだあげく、小さな蓋つきの壺のようなものをひとつ買わせてもらった。

普段使いできそうな湯飲みとかお皿とか、魅力的に思えたものは他にもいくつもあった。しかし、その小さな壺のようなものだけは、それにいったい自分は何をいれたらいいのか、全く思いつかなかった。本当に、全然思いつかなかった。いれるものをぼーっと考えているうちに、時間ばかりがどんどんと過ぎた。

そうこうしているうちに次第に、「いくら考えてみてもそこにいれるものが全く思いつかない」というのはなんだか面白いことなのかもしれない、という感じがしてきた。そして、それにいれるものが思いついた暁には、きっと今までにない新鮮な心地がするような気さえしてくるようになった。それで、長居の末、その壺に決めた。

それから2カ月以上経った今、事務所の机の上には、他のいろいろな器にまじって、その小さな壺が空っぽのまま、ちょこんと座っている。いれるものは相変わらず、全然見つかっていない。

いったい全体この壺のようなものには何をいれたら良いのだろう。。だいたい何をいれる想定なのだろう。。というかこれはそもそも壺なのだろうか。。なぜこんなにもいれるものが思いつかないのだろう。。わからない。。いれるものがわからない。。イレルモノガゼンゼンワカラナイ。。。途方に暮れて頭を抱える人間のすぐ脇で、小さな壺がせせら笑うように座っている。

風の空想

自分にとって、山や森や雑木林を歩く楽しみのなかで、もっとも大きな部分を占めているもののひとつは「風」かもしれない。

風の音に耳をそばだてながら、風が揺らしていくものたちをぼーっと眺めていると、山を歩くことは風の跡を辿ることに等しい、などというおかしな考えが頭をかすめていきそうになることだって、たまにはある。

その風はどこから吹いてきて、どこへ向かうのか。その風はどのくらいむかしの風なのか。それが運んでいるものは何なのか。風をめぐる空想はいつだって尽きることがなくて、楽しい。