瞬間

今だからやりたいことと、これまでやってきたこととが次第に溢れてきて、毎日のように事務所に通いながら机の上でざわざわとしているうちに、5月もそろそろ半分が過ぎる。なんだかひとり静かな活気に満ちているような気もする今日この頃。

今やりたいことは、ものが立体になっていく素朴な瞬間というか、ものがぎこちなく立ち上がっていくその瞬間、ものがかたちになるはじまりの頃のようなものに、触れたい、それを描きたい、手に遺したい、ということ。

な気がする。のだけどまだよくわからない。やりたいことは、相変わらずちょこちょこと製図板のうえで線を描きながら考える。窓の外の鳥の声を聞きながら、描く。それから考える。それと同時に、目の前にあるこれまでやってきたことを、しっかりと進める。人知れず、気合を入れて。いまこの瞬間に出来ることを。丁寧に。時にはぼんやりと。ひとつひとつ。そんなことをくりかえし、自分に言い聞かせるようにして。

事務所までのいつもの道に咲く小さな一瞬は、今日もまたピンぼけ。。
窓の外では、オナガの群れがガヤガヤと騒がしい。毎日のようにやって来て、木の上でさえずりの練習を重ねているウグイスは、次第に上手に鳴けるようになってきた。

渡っていく

朝、近所の川辺では、春の風にのってツバメたちが飛びまわる姿をよく見かけるようになった。4月の半ば頃からだろうか。風の強い日ほど、楽しそうに翼をひろげて川の上を飛んでいる。

調べてみたら、ツバメは群れになって渡るのではなく、一羽ずつ単独で渡ってくるのだという。
昼間、太陽を目印に。あの小さな身体で。

彼らはどんなところから飛びたって、どの風に運ばれて、いま、ここにいるのだろう。渡り鳥をみかけると、ついつい空をあおいで遠い場所にぼけーっと思いをはせてしまって、それからふと我にかえって足元の土を見つめる。どおーっと風の音がして、川の上をいつのまにやら季節が渡る。

写真は、事務所の窓辺で気持ちよさそうに春の光をあびているポトスとつる性ガジュマル。
今年も冬を越せたね。

塀の裏の自由

休日、近所の道を歩いている時に、通りに面した小さな家の1階の窓の前、ベランダのような低い塀に囲まれた場所から、あまり見かけないくらい大量のシャボン玉が空へと舞いあがっていくのが見えた。

塀の高さはだいたい1メートル、窓と塀の間の奥行きは60センチくらいだろうか。どうやら、その塀と窓とに挟まれた余白のようなスペースで誰かがシャボン玉を吹いているらしかった。すぐ隣には小さな庭もあるというのに、わざわざその狭苦しい空間の影に身を潜めて吹いている。

塀の裏側でキャッキャとはしゃぐ声はしないし、物音もしない。塀の高さは結構低いのに、子供の頭は見えてこない。窓のカーテンも閉まっている。一度に吹かれるシャボン玉の量は、なんだか妙に多い。

子供にしてはおとなしくて、やたら肺活量のある子だなあ、きっと大人びた体格の静かな子供なんだろうなあ。なんて妙に感心しながら近づいていくと、また音もなく、膨大な量のシャボン玉が一気に塀の上に姿を現して、ギョッとした。

家の前を通りすぎるとき、そっと塀のむこうに耳を澄ましてみたけれど、やっぱり声はしない。音もしない。頭も見えない。

いや、待てよ。
あの塀の後ろに隠れているのは、子供とは限らないのではないか。
そんな考えが、その時ふと頭をかすめた。

いい歳の大人が、もしかするとコワモテをした髭面のおじさんなんかが、この状況下、休日の時間をもて余し、通行人に隠れてシャボン玉を吹いているのではあるまいか。

だとしたら、あの謎の肺活量も合点がいく。そうか、きっと屈強な大男に違いない。それにカーテンも閉まってるということは家族にも内緒なんだな。だからあの狭いスペースに身をかがめて隠れているのか。家族には窓の外でダンディに煙草をふかしてくるふりをしながら、実はひとり童心にかえって大量のシャボン玉を必死にふかしているんだ。

こちらの空想がぷくぷくとシャボン玉のごとく膨らんでいくのに合わせるかのように、塀のむこうからは大量のシャボン玉が次々に空中にむけて発射されていく。相変わらず、声はせず人影は見えず、ひっそりとした静けさが小さな家のまわりをつつんでいる。

よく晴れた空の下、目の前にある低い塀の裏側のわずか60センチの奥行の中で、恥ずかしさに小さく身をかがめた髭面の大男が、こちらに気づかれないように静かに息を潜め、自慢の肺活量を駆使して必死の形相で楽しそうにシャボン玉を吹いている姿がぼんやりと脳裏に浮かんできて、なんだか妙に可笑しかった。

それぞれの手

いま、世界ではどれくらいの手が動き続けているだろう。

きっと今も遠くのどこかで黙々と動き続けているのであろういくつもの手を、ただ頭の中に思い浮かべてみるだけで、なんだか少し幸せな気分になる。たとえそれが見知らぬ手であったとしても、その手の軌跡を勝手に想像してみるだけで、なぜだかホッとした心地がする。

でもこのような状況の今、その人の意思に反して、動くことをやめざるを得なくなってしまった手も、きっと少なからずあるに違いない。もしかしたらその中には、何百日も何千日も何万日も、同じような軌跡を描きながら繰り返し動き続けてきた手もあるかもしれない。
その手をとめるということ、暑い日も寒い日も繰り返し動き続けてきたその手をとめるということは、その人にとっていったいどれほどの痛みと悲しみを伴うものであるだろう。

動き続ける手と、動くことをやめてしまった手。

それぞれの手を、ただただ心の中に思い浮かべてみる。
深い敬意と共に、静かに思い浮かべてみる。

小さな光

事務所までのいつもの道。雑草たちの暗がりに咲いていた小さな光が綺麗で、なんだか素朴で大切な一瞬のように思えた。のだけれども急いでいたので写真はピンぼけ。。。

ピーチュルチーピーチュルチー。開け放った窓の外に、今日はめずらしくメジロの明るいさえずりがよく響く。昼過ぎに一度鳴きやんだその声が、夕方になって先ほどからまた頻繁に聞こえてくるようになった。
繰り返し繰り返し、透き通った声で鳴いている。彼(さえずるのは雄らしいので)にとって、今日という日は特別な日か何かなのだろうか。

ピーチュルチーピーチュルチー。

メジロが小さな身体に精一杯の力をこめて、さえずりの声を一生懸命に振り絞る姿がふと頭に思い浮かんできて、机に向かいながら心の底でそっと声援を送りたいような気持ちになった。

机の上の森

待っていたものがついに手元に届いた。
いま、行きたくても行けない、歩きたくても歩けない、ある町と森の地形図たち。

このような状況のなか、その場所に行くことが叶わないならば、自分は、机の上の道を辿り、全ての等高線を丁寧になぞって、地図の上の町と森を自分の手でゆっくりと歩いてみようと思いたちました。

まずはどこから歩きはじめよう。

やっぱり最初はあの工房でゆっくり珈琲を飲みたいな。その後は食堂のレバニラでお腹を満たしたら、道を南に折れ、町を離れ、川沿いの林道をぬけて、あの森を目指そうか。

今日から仕事と暮らしの合間に少しずつ、いつものシャープペンシルとトレーシングペーパーだけを持ち物に、机の上でひとり静かに歩きはじめてみたいと思います。

行けぬなら 描いてしまえ 津南町

夏の午睡

遠方の古い友人のお店。
結局、去年の夏に行ったのが最後の訪問になってしまった。

自然の色に溢れた匂いたつような静かな料理とそれを枠づけていた簡素な四角い木の器、カッコ良かったなあ。あの箱のような器に美味しい料理が丁寧にそっと配置されて目の前にそーっと運ばれてくるのを見ていると、昔ある厨房で料理の盛りつけをしていた時に言われた「器は庭だと思え」という言葉を思いだしたりもしました。

お店での時間は、なんというか、夏の日の午睡のようなおぼろげで心地よい、美しいまどろみの時間でした。(ただただ毎回昼間からお酒に酔っ払っていただけかもしれないけれども。。。)きっと記憶に残っていくであろう静かな時間と最高の空間を、ありがとうございました。

霧のなか

仕事の手を休めて、珈琲をすすってひと息つき、ふと古い記憶と戯れていたりなどする真昼どきに、ぼやけた記憶の中でいつも深い霧につつまれているような場所がいくつかある。

ような気がする。分からない。気のせいかもしれない。記憶と霧は、どこかなんとなく似ている。
写真は真夏の苗場山。ぼんやりと溶けた淡い霧のなかをすいすいとトンボが飛んでいた。

幻想

いま、森はどんなだろう。
ひとの気配が遠のいた夜の事務所。車の音も遠ざかり、時計の針の動く音がクリアに聞こえてくるような時間になると、ついつい手がとまって、机の上にひとりぼんやりとした幻想をひろげてしまいそうになる。

そこじゃない

「でも、生きる目的はそこじゃない。」
今日、なにげなく目に留まった言葉。そのあとずっと頭の隅から離れない。
断片でしかないけれど、ひとの背中を力強く押すような、澄んだ言葉だなと思った。

背中

東京の小さな丘。3月。薄い雲が空を流れていた夕方。
丘の頂上でじっと遠くを見つめていた、おじさんの背中。

むこうの山

むこうの山にむかって「ヤッホー」と大声を張り上げてみるのは、一度は誰もがやってみる定番なのかもしれないが、自分にはなんだかそれができない。第一、恥ずかしい。。「ヤッホー」をするひとを見ると、羨望めいた眼差しでただぼんやりと眺めてしまう。

そのかわり、遠く離れたむこうの山を見た時にいつもなんとなく考えるのは、その山のなかを歩いているのであろう見知らぬ誰かの心が、しーんとした豊かな静寂と平穏につつまれていますように、というなんだか訳の分からない小さな願いのようなものだったりもする。

それは本当に自分勝手な空想にすぎないのだけど、できればむこうの山を歩くそのひとが森や山と向きあっている静かな時間(とは限らないはずだけれど)を邪魔しないようにしたい。その見知らぬ誰かには「ヤッホー」の声ではなくて山の音を聞いていてほしい。だから、ひとりの山では出来るだけ静かに歩くようになった。

山での下りは猫のように歩け、などという何度か聞いた言葉を頭に浮かべながら、出来る限り頑張って自分もそろりそろりと音の出ないような足取りで歩いてみたりする(これが結構難しい。)。足のつま先とそれから耳に、意識を集中させながら歩いてみる。ベンチに座ってむこうの山を眺めているひとがいたら、自分は休まず静かに横を通り過ぎる。「ヤッホー」は言わない。

それを何のためにやっているのかいつも途中で分からなくなるけれど、誰に求められているわけでもないその小さな謎めいたこだわりを、ひっそりとひとり続けていけたらよい。

ひととひとの距離が遠く離れれば離れるほど、たとえそのひとが見知らぬひとだったとしても、遠く隔たったそのひとの具体的な姿や顔を思い浮かべ、そのひとに対する自分なりの想像力と敬意を心のなかに雲のように静かに浮かべてみることを、忘れないようにしたいなあ、と思う。

帰り道。ほとんど揺らぎもない桜の水面の横を抜ける。
静まり返った街と、一目散に家路を急ぐ人たち。

ひとの気配のない個人経営の小さなお店。毎日書きかえられるいつもと変わらぬ手描きの黒板。綺麗に掃除されたガラスの奥の誰もいないカウンターの灯り。言葉が出ない。

今朝、川沿いの道でジュウイチによく似た鳴き声を聞いた。何度も聞いた。本当にいるのだろうか。空を仰いでも姿は見えずじまいだったけれど、もしこんな東京に、ジュウイチがやって来ているのだとしたら、ありがとうと言いたいような気がする。

シジュウカラ

昨日。どんよりとした曇り空の合間に一瞬だけ、窓の外の桜に明るい光が落ちた瞬間があって、なんだか素晴らしかった。あわててカメラを手にとったから、1枚目はピンボケ、2枚目の時にはもう既に元の曇り空に戻っていた。

「ツピーツピーツピー」。いつもよりひと気のない街をルンルンと駆けまわるかのように、窓の外でシジュウカラが何度も鳴いた。

陰影

「勝浦の家」を掲載していただいた『住宅建築』誌(No.480号)の誌面より、写真家・傍島利浩さんの、まるでトム・ヴァ―ラインのギターのような深い陰影が刻まれた写真。

傍島さんに今回撮影していただいた写真たちのその陰影を、今、窓の外の雨音を聞きながら改めて眺めていて、なんだか身体の中にグッと鋭い力がみなぎりました。

本屋さんに行くことさえままならないような重たい雰囲気につつまれた毎日ではありますが、でも、自分としては、暗い閉塞感にとざされたこんな日々にこそ見て頂きたい写真だと、あらためて強く感じました。

隔月発売の雑誌のため、2月半ばに発売されたこの号はもうまもなく店頭などから消えていくだろうと思います。このような時ですが、もし宜しければ、ご覧いただけたら本当に嬉しいです。

輪っか

いつかのお寺の庭のやわらかい痕跡。
きっと今日も明日も黙々と誰かの手がこの小石たちをはき清めているのだろうな、と思う。そのひとの手の動きを、そっと想像してみる。繰り返し繰り返し動かされる手の軌跡。その手に伝わってくる感触。かすかな陰影。小石たちがぶつかりあう小さな音。
たぶんそのひとの手のひらにしか訪れない、ひっそりと静かな時間を思う。

ワタスゲ

去年の夏のワタスゲ。別名「雀の毛槍」というのだとか。
ふわふわ風に揺れるこの白い種子のかたまりが出来る前の、雪の溶けた湿原に咲く、枯草と見間違うような平凡で地味な黄緑色のその花を、きりっと引き締まった寒空の下で、見たい。

今日は窓の外の木々を揺らす風はなく、ひどく乾いた声でカラスが鳴いている。どんよりと曇った空には雀の姿も見当たらないけれど、遠いどこかの湿原の足元では、雪にくるまれたワタスゲたちが、身を寄せ合い息を潜めながら、じっと、ひっそりと、雪解けの季節を待ち続けているに違いない。

小さな沈黙

去年の師走。山をおりたところにポツンと建っていた小さな小さな農小屋。
遠い過去に、誰かがそこに置き忘れてしまったのではないかと思うような、深い沈黙に満ちていた。

白い森

ひかりにあふれて春を待つ木々たち。
じっと待つ。ずっと待つ。

風のない日。なんだか春を夢見るうきうきとした明るい声が、
木々たちの間から聞こえてくるようだった。

青い池

あたたかい霧につつまれたような、ぼんやりとした貯水池。
人間が地面を切り開き打ち固めた池の水は、嘘のように青くてどこか空しい。