いつものこと

古くからあるすばらしいお店が、この半年あまりの間にいくつも閉まった。

そのお店を営まれていた方々が何十年と繰り返していた「いつものこと」は街の沈黙のむこうに遠ざかって消えてしまったのだろうし、そのお店がそこに在るということをかすかな拠りどころにしていた人たちの「いつものこと」もあっさりと失われてしまったのだろうと思う。そうした出来事はいつだって、どうしようもなくあっけない。

写真は家から事務所までのいつもの道。ほとんど流れが静止しているかのように鎮まりかえった水面のうえに枯れ葉がパラパラ浮かんでいた。

散歩道の白

散歩みち。工事のための橋桁の影が川の水面を真っ黒い色に染め、川と歩道の間のちいさな隙間では太陽の光を浴びた草たちが真っ白く風に揺れていて、その2つの色のコントラストがつくるその場の雰囲気の印象が、なんだかちょっと目に留まった。ゆらゆらと気持ちよさそうに揺れる白い草たちに気づかれぬよう、散歩の足をとめ、息を潜めて、何枚かの写真をそーっと撮った。キリっと澄んだ風が吹いた。

木の幻想

なぜそこに、たったひとりで生えているのだろう。
奥の森ではなく、なぜそこに。

その木がそこにたったひとりで立っているということは、たぶん、いつか遠くの時間にその場所で起こった何かの痕跡をあらわしているに違いない。

そこには川が流れていたのかもしれないし、池があったのかもしれない。あるいはかつてそこには雑木の群れがあって、他の木々はたまたま洪水によって流されたのかもしれない。山のほうから落石がやってきたのかもしれないし、鳥たちがただその場所に何度も何度も種子を蒔いただけなのかもしれない。

それがどのような物事の痕跡なのだったとしても、それからその木がどのような姿かたちをしているのだったとしても、1本の木がただそこに立っているということそれ自体に何かの痕跡、何かの記憶、何らかの時間が封じこめられているということ。

そのことにはそれだけでたくさんの価値があり、それを対岸からただ眺めるばかりの小さな人間の心に茫々たる幻想を浮かびあがらせてやまない。

ことば

「もしもあなたがワシントン山の頂上に立ったことがあるなら、そこで何を見出したか、と私はたずねたい。そこに登ること、ケガをすることは重要なことではない。そこにいる間は私たちは登るということをそれほどしていないのである。ただ昼食をとったり、家でと同じような多くのことをするだけである。本当に山を越えるのは、そういうことがあるとして、帰宅してからなのである。山は何といったか。山は何をしたか。」(H.S.ソルト『ヘンリー・ソローの暮らし』)

そこを歩くことは重要なことではない。それを描くこと、消すこと、描き直すことは重要なことではない。山は何といったか。建築は何といったか。

夜の銀

この前の雨上がりの夜、雑木林の道を歩いていて、ふと気がついたこと。

葉っぱが落ちていく時にたてる音は、森の中の生き物がたてる音と似ている。
暗闇の中の葉っぱは銀色をしていて明るい。
夜の木々はゆったりと手をひろげていて、どこかやさしい。

はじめての道

何度も何度も、この道を歩いたような気がする。

でもこれは、はじめての道。
どこにでもありそうで、ここにしかない、はじめての道。
夏のひどく暑い日で、鳥たちは木陰でやすみ、蝶の姿さえ見当たらなかった。

秋の絵

どこか上野あたりの美術館に展示された古ぼけた油絵のような、秋の湿原。
わずかに顔をのぞかせた秋の太陽はキリっと冴えていて、その澄んだ光をぼんやりと湿った霧がすぐに溶かした。

水平線

水平線のむこうにオオシラビソのようなものがぼーっと立っていて、生暖かい風にのって流れていく霧の奥にちらちらと霞む。なんだか時間の停止した砂浜にいるような感じがして、芥川の「蜃気楼」をふと読み返してみたくなった。

ソローの池

流れのない静かな水面の上に綺麗な正円がいくつも浮かんでいる。

見渡す限り、そこにはひとつとして同じ色は無く、ひとつとして同じ大きさのものはない。円はそれ自体が単独で完結した幾何学形態だから、ここにはたくさんの自律したもののかたちが浮かんでいるようにも見える。

でもよく見ると、それぞれの円には中心から周縁へとこまかな線や切れ込みが入っていて、その向きによってそれぞれに固有の方向性が生まれている。それぞれの円はてんでばらばらの方向をむいて浮かんでいるし、円と円の離れ方、重なり方には、どこにも恣意的なものがなく、意図もなく偶然にその場に葉を開いているだけのようにも思える。

にもかかわらず、ここには何らかのまとまり、それぞれが自律したものたちの恣意的でない関係性がつくるまとまりがあって、思わずそのさまに何かの意味を見いだしてしまいそうにもなるのだけれど、ひとがそこにどんな意味を見ようとも、円は円のまま素知らぬ顔ですいすいとそこに浮かんでいて、そのことに小さな安堵を覚える。

複雑に組織化されていく社会を横目に森の生活をつづけながら、朝から晩まで、ソローがひとり覗きこんでいたという池の水面には、こんな円が浮かんでいたりはしたのだろうか。そんなことを、とりとめもなく考えてみたりもした。

陽の傾き

この時期の光は、一瞬一瞬であまりにも刻々とその様相を変える。傾いていく陽の光は、普段の街の雑踏の中にたくさんの見知らぬ模様を浮かびあがらせて、次の瞬間にはもうその模様を泡のように消し去って流れていく。

目の前にある平凡な場所にはきっと数えきれないほどの無数の一瞬があって、ひとはその一瞬をいつも見逃しながら過ごしているのだということを、その傾きの速度はさりげなくひとに知らせる。

乾いたかたち

モノには、あるいはモノのかたちや幾何学には、それぞれに異なった湿度のようなものがあるのかもしれない。湿ったかたち。乾いたかたち。

湿ったかたちがどこか生命のような有機的なものの存在を思わせるとしたら、乾いたかたちが映し出しているものとはなんだろう。山の奥で乾ききったかたちのまま立ち尽くすもの。海辺の乾いた砂の上に置き去られたもの。

夏の雨の日。霧のむこうで立ち枯れていた1本の木のかたちに憧れにも似た不思議な感情を覚えたことがあった。幻想のごとく漂う霧の中、その木のかたちだけが、なんだかとても醒めていた。

秋の穂

いつもの道すがら。誰もいない昼下がりの公園で、秋の空気をすいこんだ光の色の小さな穂が、ひと知れず眩しく風に揺れていた。

均整

古びた建築を見ているとき、その建物や空間に宿されている比例や均整のようなものに唐突な共感や不可思議な懐かしさを覚えることがある。

比例や均整というものは、その建物の「構え」や「重心」を決定づけるものであり、その建物をつくった誰か、描いた誰かの身体感覚であったり世界との距離感(世界の中での自分自身の理想の立ち方)であったりを反映したものでもあるのだろうなと感じる。

いつかの時代の名前も知らない誰かと、そこから遠く隔たった場所にいる自分とが、そこに遺された建物の比例や各部の寸法の均整によって結びつけられること。

寸法というただの数字の存在が、いくつかの時代や場所を飛び越えて、遠くの誰かの身体の底をかすかに揺さぶる可能性があるということが、建築が遺っていくことの意味であり、図面の中に線と数字を書き連ねていくことの面白さでもあるのかもしれない。そこにはきっと、幾何学というものの影が霧のように漂っているのだろう。

夏の終わりのある朝、山の麓の小さな建築を見上げながらそんなことを少しだけ、考えた。

風景に

この風景みたいになりたい。
と思えるような風景をいつか自分の足で見つけられたならば、きっと素晴らしい。できればその風景は、静かでありふれていて飾り気のないものが良いなと思う。

小さな峠

古い神社の脇から植林された杉林の中に入って、早朝、まったくひとの気配のない道をてくてくとのぼる。

その途中でふと脇道にそれて、ほとんど名前の知られていない小さな小さな山に寄ってみる。胸の高さほどまで茂った笹に晩夏の匂いがたちこめて、その合間にひとの通った痕跡がかすかに見える。

誰もいない。誰かがいた痕跡もあまりよく見えなくなってしまっているような小さな山の頂には、
一面の笹の海。蝉の声。

左から右、右から左へと張り巡らされた繊細な蜘蛛の糸を壊さぬように、その下をそーっとかがみながら通りぬけ、明るい稜線の道に出ると、小さな峠にひとつだけ、むらさき色の花が咲いていた。

町家の井戸

以前行った、ある古い町家の片隅。
深い光の井戸の底にゴロンと置かれた象徴的な木の桶。

小さなひとつの住居とそこでの生活が、それを取り巻く都市や街の時空の中にどのように埋め込まれたものであったのかを示唆するような、目に見えない空想の力に溢れた場所だった。

この住居に暮らした人が、どのように自分を取り巻く世界と対峙していたのかということが、住居そのものの空間的な構えにあられているような感じがした。

対象の遠さ

たとえばある山を歩いたとして、その山のことを自分の中で理解したり、誰かに話したり、伝えたりすることが出来るのは、その山を歩いた日からずいぶん時が経った後のことだったりする。

ある本を読んだとして、その本の意味が自分の中で噛み砕かれて溶け出すのには、少なからずある程度の年月を要するし、ある図面を描いたとして、そこで描きたかったことの内容をふと実感することが出来るのは、それを描いた日から遠く離れた時であることが多い。

ある対象を、自分がその対象の目の前にいる時に、きちんと理解するのは難しい。
その対象の意味は、そこから遠ざかった時にはじめてぼんやりと浮かびあがってくる。

だから写真であれ描画であれ文章であれ、まずは自分の目の前にあるその対象を淡々と記録することに価値があるのだと思う。その記録を遠く離れた日に発見した時、そこではじめて生まれてくるものがあるのだと思う。

そのために、まずしなければならないことは、たぶん、動くこと、行動すること。対象の前に立つこと。それを見ること。静かに見上げること。記録すること。そして、そうしたことを続けること。
今日、そんなことを思った。

ひかりを写すひと

見るたびに「ああ。このひとはきっと光を見ているひとなんだなあ。光だけを見ていたいひとなんだなあ。」と思う写真がある。ただそのことだけが自分に伝わってくる。どの写真もさーっと澄んでいて、静かな眩しさがある。いつまでも見ていることが出来そうに思う。

影がないと光は写らない、光は影によってかたちを得るものだとばかり思っていたのだが、その写真では影は光の背後に消えている。写真の明度自体は高いわけではないから、勿論ちゃんと影は写っている。でもその写真の中では、影によって光がかたちを与えられているのではなく、それを撮るひとの視線はまっすぐに光のほうだけを向いている。カメラの後ろにいるひとは影の中から澄んだ光だけを見あげて、そっちに向かっていこうとする。

まるで植物のようだなと思う。

夏の雲

カレンダーの上では8月はまもなく終わるけれど、
今年の夏はまだまだどこまでも続いていくような感じもする。

夕闇の頃、橋の上に大きな雲がしずかに水を滴らせながら昇った。
右のほうには、きれいな真ん丸をした白い月がとろんと浮かんでいた。

更新

少し前ですが、ホームページの「市原の家」と「自由帳」のページを更新しました。「市原の家」のページは、今まで載せていなかった小さな写真などをたくさん追加してみました。

「自由帳」は、しばらく更新を出来ていなかったのですが、ページのレイアウトや内容を完全に変えました。自分の手で描いたものや建築について思うことを、金田幸三さんの写真と、自分の図面と文章とで、つらつらと気軽な気持ちで書いていきたいと思っています。これから、こまめに更新していく予定です。

ページレイアウトの更新にあたっては今回も、このホームページをつくってくれた大田暁雄さんにお世話になりました。金田さん、大田さん、いつもありがとうございます。