
いつかのお寺の庭のやわらかい痕跡。
きっと今日も明日も黙々と誰かの手がこの小石たちをはき清めているのだろうな、と思う。そのひとの手の動きを、そっと想像してみる。繰り返し繰り返し動かされる手の軌跡。その手に伝わってくる感触。かすかな陰影。小石たちがぶつかりあう小さな音。
たぶんそのひとの手のひらにしか訪れない、ひっそりと静かな時間を思う。

いつかのお寺の庭のやわらかい痕跡。
きっと今日も明日も黙々と誰かの手がこの小石たちをはき清めているのだろうな、と思う。そのひとの手の動きを、そっと想像してみる。繰り返し繰り返し動かされる手の軌跡。その手に伝わってくる感触。かすかな陰影。小石たちがぶつかりあう小さな音。
たぶんそのひとの手のひらにしか訪れない、ひっそりと静かな時間を思う。

去年の夏のワタスゲ。別名「雀の毛槍」というのだとか。
ふわふわ風に揺れるこの白い種子のかたまりが出来る前の、雪の溶けた湿原に咲く、枯草と見間違うような平凡で地味な黄緑色のその花を、きりっと引き締まった寒空の下で、見たい。
今日は窓の外の木々を揺らす風はなく、ひどく乾いた声でカラスが鳴いている。どんよりと曇った空には雀の姿も見当たらないけれど、遠いどこかの湿原の足元では、雪にくるまれたワタスゲたちが、身を寄せ合い息を潜めながら、じっと、ひっそりと、雪解けの季節を待ち続けているに違いない。

去年の師走。山をおりたところにポツンと建っていた小さな小さな農小屋。
遠い過去に、誰かがそこに置き忘れてしまったのではないかと思うような、深い沈黙に満ちていた。

ひかりにあふれて春を待つ木々たち。
じっと待つ。ずっと待つ。
風のない日。なんだか春を夢見るうきうきとした明るい声が、
木々たちの間から聞こえてくるようだった。

あたたかい霧につつまれたような、ぼんやりとした貯水池。
人間が地面を切り開き打ち固めた池の水は、嘘のように青くてどこか空しい。

ある山を撮り続けている写真家の方の写真があって、そこにはなんというか、そのひとが時には汗水をたらし、時には寒さに凍えながら、その山の中に、山の内側に入って行って、自分の足で何時間も森の中を歩き、時には雨に打たれ、時には日暮れをむかえたりもしながら、凍えた身体で、かじかんだ指で、この写真のシャッターを押したんだろう、という実感のようなものが写真の中に封じこめられている感じがする。
その人は確実にその山の内側に、内部にいて、そこから写真を撮っている。でもその実感や苦しさや凍えた指は、写真の前景には現れず、あくまでも目の前の自然そのものが淡々と切り取られ、写しだされ、私たちの前に差し出されている。それが、いい。そこに心を掴まれる。ちょいと気軽に自然の中に入り、傍観者のような視点で、美しいアングルと美しい色味で撮られた写真との決定的な違いは、たぶんそんなところにあるんじゃなかろうか。(写真は全くの素人なので分からないけれど。。)
建築も、設計をしている人間がその建築の内側に、内部に入りこんで、その場所に籠り、そこからの視点と想像力を使ってつくることができたらなあ、と思う。建主が手づくりしたセルフビルドの建物が必ず輝いて見えるのは、そんな風に、建築の内部に入りこみ立て籠もった人間が、内側から、自分の手で実感を持ってつくっているからなのだろう。
だから、何はともあれ自分はまず、自分に出来ることをしよう。手描きにこだわろう(大変だけど。。)。できるかぎりの時間をかけて丁寧に詳細図を描こう。そのことを通じてものをつくる人の手を想像しよう。一歩ずつ、牛歩のようなスピードで、自分の手を使って建築の中に入っていこう。もしかしたら、そんな小さなことをゆっくりと積み重ねているうちに、「内側に入りこんでつくる」感覚がほんの僅かばかりは手のひらに宿るかもしれないから。
、、というようなことを最近いろいろな写真を見ていてぐるぐると、とりとめもなく考えた。

冬の森。

誰もいない沢沿いの下りの道。最初、しーんとした山の中に、ぽとりぽとりと水の粒の音が聞こえて、その音は次第にさらさらとした流れの音に変わる。
道沿いには次第に小さな細い水の流れが出来てきて、その流れをまたいだり、飛び石の上を歩いたりしているうちに、少しずつ、本当に少しずつ水の流れが太くなってくる感じがする。
太いと言っても数歩で渡れるくらいの幅でしかない小さな流れには、木の板や丸太なんかが丁寧に架け渡してくれてあったりもして、その上を渡って、大きな石を踏みながら、何度も流れの左岸と右岸を行ったり来たりしながらゆっくりと下る。
その流れにいくつかの他の細い流れが次第に合流したりしてくると、次第に石のかたちや大きさも変わってくる。水の色が濃くなる。
水の音は「さらさら」から「ざーざー」に変わり、いつしか「ごうごう」や「どー」という音になって、気がつくと沢になり、その沢は山をおりたところで振り返ると、もはや音もない大きな川になっていた。
あたりまえの平凡なことだけれども。

小さな山から次の山へとのびていく稜線の道。
なんというか、虚飾のない、鋭い、まっすぐな道だった。

先月の暮れ。
風のない穏やかな一日。
午後、山裾でぼんやりとひとり腰かけていると、
目の前を通りすぎたひとが「春だ!」と声をあげながら、両手を伸ばし、
ルンルンとした背中で山の中へと歩き去っていった。

先日、ある写真家の方とお酒をご一緒する機会があって、もしも好きな写真家の話になったら、自分はある人の名前を出そうかなと思って、お酒の席に向かった。特に彼の撮るカラスの写真が好きなんですという話をしてみたいな、などとぼんやり思いながら能天気に歩いていった。すると飲みはじめて割と最初のうちに、その写真家の方のほうから、一番好きな写真家の名前としていきなりその、カラスの写真の人の名前が出て、ぶったまげてしまった。。
なんだか、最近そういうことが良くあるような感じがする。
今、事務所の机で昼飯を食べていたら、窓の外でバサバサと音がして、ふと見ると一羽の真っ黒いカラスが欅の枝にとまってこっちを見つめていた。あ、と思ってカメラをとって窓の外に向けて構えた時、カラスは「ふんっ」と言わんばかりに力強く枝を蹴って、自分とは180度逆の方向にすごい勢いで飛び立った。急いでシャッターを押したけれど、もはやその写真にはどこを探してもカラスは映っていなかった。
まだまだ。頑張ろう。

三月二日の午後。
ある建築家が遺した、膨大な量の原寸図の束。
薄い美濃紙の上の、無数の手描きの線と寸法。
その気の遠くなるような作業の、一枚一枚の愚直さ。誠実さ。
その図面を手にすることになる大工さんや職人さんの手の動きについての想像力。
いろいろな人たちの手を借りながら「共にものをつくる」ということについての、
邪念も気負いもないそぎおとされたまっすぐな思い。
感動しました。
自分が目指すものは、間違いなくこの紙の束だ、と思いました。
すばらしいものを見せていただき、
それから、心底勇気づけられるような力強いお話も。
本当にありがとうございました。
帰りの畑の道。小雨のなかで暗く、しかし鮮やかでした。

たぶんこれまでに誰の気にもとめられてこなかったのではないかというような、ありふれた地味なものたちに、流れていく光がひっそりと、でも確かな存在感を与えている。その瞬間を見つけたときは、ひとりしずかにうれしい。

「風がどうと吹いてぶなの葉がチラチラ光るときなどは
虔十はもううれしくてうれしくてひとりでに笑へて仕方ないのを、
無理やり大きく口をあき、はあはあ息だけついてごまかしながら
いつまでもいつまでもそのぶなの木を見上げて立ってゐるのでした。」
宮沢賢治の短編『虔十公園林』の中の、好きな一節。
今日みたいに良く晴れて風が強い日には、森は良いだろうなあ、と机の前でぼんやり思う。

発売中の雑誌『住宅建築』4月号「特集:骨格とディテール」に、「勝浦の家」を10ページにわたって掲載していただいています。
撮影は、写真家の傍島利浩さん。人や時間の痕跡がはっきりと写しだされた手触りのある素晴らしい写真を撮っていただきました。施工をしてくださった木組の皆さんの丁寧で豪快な手仕事の跡も、写真の中に是非見つけてください。
特集の冒頭は、故・高須賀晋さん設計の「茂原の家Ⅲ」。
20代の頃、高須賀さんの建築と言葉に心を鷲掴みにされて、古本屋さんに通いつめて作品集を見つけ、そこに載っていた図面を無我夢中でトレースしたのが、自分が手書き図面を描きはじめたきっかけです。
「原寸図を描くということは、図面のうえで実際の仕事をすること、工事をすることなのだ。」
そんな高須賀さんの言葉を心のなかで繰り返しつつ、図面をお渡しする大工さんや職人さんのそれぞれの顔をはっきりと思い浮かべながら、コツコツと時間をかけて描いた手書きの図面たちも、6枚ほど掲載していただいています。
今回あたらしく書かせていただいた文章には、自分に木のすばらしさを教えてくれた、すべての森、すべてのひと、すべての大工さんへの、ありったけの思いをこめてみたつもりです。
本屋さんなどで見かけた際には、是非ご覧いただけたら嬉しいです。

自分はどうやら、地味な山が好きだ。
なかでも、葉っぱが落ちてあたり一面が土色に染まる冬の季節は、すごくいい。
夏の空、素晴しい眺望、色とりどりの花、山頂の雲海。
そんな劇的な風景も勿論素晴らしいし、心から感動する。
でも、鮮やかなもの、劇的なものに期待をしながら山を歩いている時の自分は、
道の脇に立つ素朴な枯れ枝に射す光や、
ぬかるんだ土のなかに潜む小さな生き物や、
木の幹に刻まれた風や雨の痕跡を、きっと見過ごしてしまっているに違いない。
同じような地味な道を繰り返し繰り返し黙々と歩いていると、
山のなかの小さな差異、小さな命、小さな陰影に、
いつもよりすこしだけ敏感になれるような気がする。
ひとりで歩くのは、地味な道でいい。

小さな山の朝。
たちのぼる空気。

京都、無鄰菴の庭。
個人的にとても好きで、ここ数年、関西方面に行く機会があるときは、
ほぼ必ず訪ねているのですが、毎回新しい、小さな発見があります。
去年の夏、訪れたときに気づいたのは、庭の境界の美しさ。
ひとの手で丁寧に手入れされた、小石の道と地被類の海のグラデーションに、
なんとも言えない清らかさを感じました。
庭をはき清める、という言葉の意味を改めて考えさせられると共に、
その淡々とした繰り返しの行為の中に潜んでいるのであろう沈黙に満ちた静かな時間について
庭の片隅でおぼろげな想像をめぐらせました。

去年の年末。小雨まじりの日。
列車の待ち時間に山間の町を歩いた時。
ぴゅうぴゅうと冷たい風のふく小さな橋に差し掛かったところで、
蒼みがかった暗い川のむこうに、突然、真っ白に輝く稜線が見えた。

土の道。わだち。誰がいつ、どんな乗り物でつけたものなのか。
勝手に想像を膨らませながら、てくてくとわだちの跡をおいかけるのは、
やっぱりちょっと、楽しい。