年始に煎餅屋さんでおまけにもらった飴の袋に、
小さな紙切れが入っていて、
待ち人、遅けれど来る。
焦らず、気長に待て。
気持ちに迷いなくば早く叶う。
さわぐと損。
と書かれていました。
「さわぐと損。」
今年も自分の頭で考え、
自分の手を動かし、
自分の足で静かにゆっくりと歩けたらと思います。
本年もどうぞ宜しくお願いいたします。
唯島友亮
年始に煎餅屋さんでおまけにもらった飴の袋に、
小さな紙切れが入っていて、
待ち人、遅けれど来る。
焦らず、気長に待て。
気持ちに迷いなくば早く叶う。
さわぐと損。
と書かれていました。
「さわぐと損。」
今年も自分の頭で考え、
自分の手を動かし、
自分の足で静かにゆっくりと歩けたらと思います。
本年もどうぞ宜しくお願いいたします。
唯島友亮
今年最後に歩いた山の、夕暮れのススキ野原。
劇的なものはひとつもないけれど、ひっそりと幻想的な原っぱでした。
大晦日。静かな年末をお迎えください。
来年も、どうぞ宜しくお願いいたします。
冷たい空気。単色の自然。
古い記憶のなかを覗きこんでいるような窓。
使いこまれた木製窓から外を見ると、時たま、なんだか古ぼけた「時間」の気配や痕跡みたいなものが、小さく区切られたガラスにぼんやりと映ったりするような感じがします。
風景をきりとる窓、というのはよくあるけれど、時間をきりとる窓、なんていうものがもしあったら、とても素晴らしいだろうなと思わされます。
木の幹の表面につもる雪は、どれもさらさらと美しく見える。
ひっそりとした雪景色の中の1本の柿の木。
寒空の下にぼんやりと醸しだされた人の暮らしの気配。
この日、移動中に見えた山脈は、雪をかぶり、蒼く光っているような感じ。
曇り空の鈍い光の下で、森の蒼と雪の白の重なり合いがとても印象的な日でした。
11月の空。稜線のかたち。森の色の薄さ。
なんだか地味だけど、どこか惹かれる山の構図。
朝の野原を照らす、透きとおった光。
落ち葉は、ゆるい下りの道がなぜだかよく似合うような気がします。
秋という季節が、下りの季節だからなのだろうか。
キーンと冷えた夕方の空気。誰の踏み跡もついていない、まっさらな雪の積もった木道に、紅葉を終えたばかりの葉っぱたちが、色鮮やかな標本のように散っていました。雪は標高800mくらいのところまで降りてきたようです。
きれいな立ち姿。
「農夫たちが自分の農地を耕すように、私は自分のキャンバスを耕している」というようなことを画家のゴッホが言っていた。という話を最近なにかで見た。とても印象的な言葉。
森を歩いていると、いろいろなものたちが自分を出迎え、
どこかに導いてくれているかのような錯覚を覚えることがある。
風に揺らされる葉っぱの音、鳥の声、ひらひらと舞っていく蝶。
先日は、森の道を悠然と歩く大きな一頭のカモシカに出会った。
自分の行く道の先を、自分と同じ方向に歩いて行くそのカモシカの後ろ姿の雄大さ、自信と思慮に満ちた揺るぎなさに、言葉にしがたい様々な感覚が胸の奥にざわめいた感じがした。
道の先を、一歩一歩、あまりにも確かな足取りでゆったりと、
悠然と森の中へと消えていく黒い大きな後ろ姿。
自分がとぼとぼと歩いていた道は、まるで彼が歩くためにつくられた廊下であり、彼が暮らすためにつくられた大きな家の一部であるかのようだった。
彼がこれから眠るために還っていく場所は、その道の先、落ち葉の山をかき分け、ゆるやかな起伏の連なりを経た深い森の、そのずっと奥深くにあるのだろう。
自分のような人間は目にすることもできない、森の向こう側の静かな場所。
ほんの一瞬の出来事ではあったけれど、彼の、その雄大な揺るぎない足取りの先にある、鎮まりかえった深い空間のことを思った。
10月。秋の津南町。
今回もまた、たくさんの出会い、たくさんの森。
美しい林、木の楽器、木の小屋、耕すひと、つくるひと。
皆さんに感謝です。
なんだか秋っぽい景色。8月下旬の真夏の北海道・日高にて。
林、と言えるかどうかも微妙なくらいの、道路際の小さな植林帯。
足もとの雑草たちの上に写るほのかな暗がりのなかに身を置くと、
道をとおる車の音が少し遠くに聞こえるような不思議な感覚を覚えます。
いつかどこかで見たことがある気もする、雑草たちの懐かしい静けさ。
台風の通り過ぎた土地に、
静かな時間と日々の暮らしが戻ること、
心から、祈っています。
山のなかに道をつくるために削られた、岩の断面。
自然のままのやわらかな環境の中に、突然の人工的で鋭利な感触。
どこか建築的でした。
枯草が風のふいた向きに倒れていて、
そのなかにうずくまるようにして、いくつかの草がぼんやりと立っている。
という感じの、それだけの景色。とても印象的だった。