内側の感覚

ある山を撮り続けている写真家の方の写真があって、そこにはなんというか、そのひとが時には汗水をたらし、時には寒さに凍えながら、その山の中に、山の内側に入って行って、自分の足で何時間も森の中を歩き、時には雨に打たれ、時には日暮れをむかえたりもしながら、凍えた身体で、かじかんだ指で、この写真のシャッターを押したんだろう、という実感のようなものが写真の中に封じこめられている感じがする。

その人は確実にその山の内側に、内部にいて、そこから写真を撮っている。でもその実感や苦しさや凍えた指は、写真の前景には現れず、あくまでも目の前の自然そのものが淡々と切り取られ、写しだされ、私たちの前に差し出されている。それが、いい。そこに心を掴まれる。ちょいと気軽に自然の中に入り、傍観者のような視点で、美しいアングルと美しい色味で撮られた写真との決定的な違いは、たぶんそんなところにあるんじゃなかろうか。(写真は全くの素人なので分からないけれど。。)

建築も、設計をしている人間がその建築の内側に、内部に入りこんで、その場所に籠り、そこからの視点と想像力を使ってつくることができたらなあ、と思う。建主が手づくりしたセルフビルドの建物が必ず輝いて見えるのは、そんな風に、建築の内部に入りこみ立て籠もった人間が、内側から、自分の手で実感を持ってつくっているからなのだろう。

だから、何はともあれ自分はまず、自分に出来ることをしよう。手描きにこだわろう(大変だけど。。)。できるかぎりの時間をかけて丁寧に詳細図を描こう。そのことを通じてものをつくる人の手を想像しよう。一歩ずつ、牛歩のようなスピードで、自分の手を使って建築の中に入っていこう。もしかしたら、そんな小さなことをゆっくりと積み重ねているうちに、「内側に入りこんでつくる」感覚がほんの僅かばかりは手のひらに宿るかもしれないから。

、、というようなことを最近いろいろな写真を見ていてぐるぐると、とりとめもなく考えた。