郵便

遠方のある人とお電話をしていて、あるもののことを「もう届きました?」とお聞きした時、「郵便屋さんは毎日かならず○○時にうちに来るからさあ。その時間になったら持ってきてくれると思うんだよね。」とその人が言った。

それってすごく当たり前のことなのかもしれないけれど、その時の自分には、それがとても羨ましいことに思えた。その人と郵便屋さんとの関係、それからその関係を成り立たせているその町の空気、時間の感覚。

「郵便」という言葉が、空間から空間へと淡々とモノが転送されていく制度のことではなく、それを黙々と運ぶひとの存在を思い起こさせるものであるような、そんなおおらかな感覚のことを思った。

写真は、以前行ったある古い郵便局の建物。
郵便局の受付の空間って、なんだか良い。窓口の向こうに郵便をささえるひとが見える。そのひとに「宜しくお願いします」と言って郵便物を渡すひとがいる。自分も、遠くの誰かに郵便を出してみたくなる。

ひかりの角度

夕方、事務所のロールスクリーンの布地の上をゆらゆらと移ろっていた光。
斜めのラインがすーっと通り、やわらかな濃淡があって、きれいだった。

あたりまえのことだけれども、少なくとも自分が暮らしている場所では、いつも光は斜めから射してくるし、そうした斜めの光に呼応して屋根がつくられ、窓があけられて、ひとの暮らしが営まれてきた。

地球のどこかには光がまったくの垂直や水平に降り注ぎつづける光景もあるのかもしれないけれど、たぶんそれは自分にとってはとてつもない非日常の体験になるのだろう。山のうえで見る朝日や海のなかで見る夕日に感動を覚えるのは、その角度が水平に近づく一瞬があるからでもあるのだと思う。

もしまったくの垂直や水平の角度を保ったままひとを照らしつづける光があるとしたら、たぶんそこには自然の生あたたかさのようなものはなく、自分のような人間はそこで生きていくことは出来ないのかもしれないけれど、でもやはりそれは、ずっと見ていたいような光景でもあるのだろうなあと思った。

線をひくこと

抑制されたものに、いつも静かな共感と憧れを覚えながら過ごしてきた。
何かがそっと抑えこまれたもの。何かがさっと消し去られたもの。そのようなひと。そのような言葉。そのような表現。

いつだったか、建築の図面というもの、それも手描きの図面というものにはじめて出会ったとき、これなら、この中でなら、自分にも少しばかりはなにかを言えるかもしれないなと思った。

図面は、たとえそこにどんなたくさんの感情をこめて描いたとしても、出来あがったものは単なる1枚の紙の上の無機質な鉛色の線と数字の羅列でしかないところが良い。

その図面の中に、それを手にする誰かに伝えてみたいことをどれほど叩きこんだとしても、その人の前では「でも、これはただの図面なので…」とそ知らぬ顔でうそぶけそうなところも良い。

それから、それを描いた人間の存在がくりかえされる線や数字の背後にサーッと消え失せて、人称のない淡々とした手の動きの痕跡だけがぼんやりとそこに漂うような感じも良い。

たとえばもし、その家を美しいものにしたいと強く望んだとしても、図面の中に「この家を美しくして下さい!」と書くことはできないし、その図面を美しい色で彩ることもできない。それを淡白な鉛色の線と数字と記号だけであらわすのが、自分の仕事なのだと思う。

0.5ミリのシャーペンでひく線は、その時の自分の状態をあまりにも繊細に写しとってしまうものだから、感情が揺らいだり、前のめりになったりしていると、とたんに線が揺れ、濃度が変わり、太さが曖昧になって、図面の中に不必要な濃淡が生まれてしまう。
同じ濃さの、同じ太さの無機質な線を紙の上にきれいにひくのは、ビックリするほど難しい…。

だから図面を描くとき自分にできることといえば、製図板にむかって肩の力を抜き、息をとめ、感情を殺し、声を潜めて、まっすぐな鉛色の線をただ淡々と引いていくことくらいしかない。

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【掲載のおしらせ】

8/19発売の住宅建築』10月号に「勝浦の家」「一宮の家」「市原の家」を計10ページほど掲載していただいています。

家をささえる小さなものたちと、その図面についての特集です。写真は古くからの友人・金田幸三さん。施工は木組さん。家をつくってくれる大工さんに手渡すために、1/6の縮尺でその家の全貌を追いかけた手描き図面たちをメインに、机の上で自分の手を動かす中で実感したことを書いたささやかな文章なども載せていただきました。

もしどこかで見かけるようなことがあれば、通りすがりにチラリと一瞥していただけたらうれしいです。

小さな夏

開け放たれた窓から見える広々とした青空と入道雲の風景に夏の気配があるのは当たり前のことだけれど、時には暑さのあまり閉ざされた部屋の中にふとした隙間から差し込んでくる小さな光から夏の気配が静かに零れ落ちてくるようなこともある。

どこか遠くへ行くことが制限され続けることで逆説的に生き生きとした遠くを想像することがあるように、たったひとつの調味料で味付けされた食べ物がさまざまな味覚を呼び覚ますことがあるように、抑えこまれ、絞りこまれたものだけが伝えることのできる何かがあったりもするように思う。

消えていくもののかたち

ひとけのない小さな里山を歩いていると、細い道すじや踏み跡が植物たちに覆いつくされ、消えていこうとしているところに出くわすことがある。

ひとがつくった道や痕跡が、その人工物としての明快さや明瞭さを失い、植物たちのなかに溶けて、どこか遠いむかしの状態に還ろうとしているかのような風景。

そこには、その人工物を消していこうとする「時間」や「自然」の存在がぼんやりと不明瞭な状態のまま可視化されているようなところがあって、美しいなと思う。なにかの痕跡が消えていくところに、それでもまだなお存在する「かたち」があるとしたら、それはどんなものだろう。

トタン板

「『この屍、どうにも手に負えなんだのう』トタン板をかいて来た先棒の兵がそう云うと『わしらは、国家のない国に生まれたかったのう』と相棒が言った。僕がこの場で聞いた人間の声は、トタンかきの2人の兵が交したこの言葉だけである。」

古いノートに書きつけてある『黒い雨』の一文が、今日たまたま目に入った。幼い頃、教科書かなにかではじめて鱒二のその小説を読んだ後、湯船につかりながらその静けさをぼんやりと想像してみたことを、ふいに思い出した。

山の道をつくった人

山に道があるから、そこを歩く人は花や木を見ることができる。山に道があるから、ひとは風景を自分の足で見つけることができる。道が、そこを歩くひとに道ばたの花や木の素朴な価値を伝える。

たった1本の道が、何千もの風景をうみだす。
たった1本の道が、ひとをどこか遠くの場所へと連れだす。

その1本の道をつくるために、たくさんの思いや生活が注ぎ込まれる。いくつもの手がその場所の土を突き固める。谷に木を渡し、石をならべる。それからその道の上を数えきれないほどの足が歩いていく。たくさんのひとがその道の跡を辿っていく。

その過程で、長い時間のなかで、その道をつくったひとの存在や思いはたくさんの踏み跡の背後にすーっと消えていき、ついには道そのものの存在さえもゆっくりと消えていって、風景だけがそこに残される。

細く長くのびていく山の道を歩いて、その道をつくったひとのことを考えた日があった。目の前につづいていく踏み跡の、その奥深くに消えたもののこと。この道をつくったひとたちのように、建築をつくっていけたらなあと思った。

森の底から。空をあおいで。

立ち姿

どこがいいのか言葉にするのは難しいけれど、これは自分的には好きな写真のひとつ。
ちょっと笑ってしまうくらい、見事にこんがらがっていらっしゃる。。。可笑しみと哀愁さえ感じるこんな立ち方もまた、人みたいでいいな。tungled up in white。

骨格

雨の日。風の中で立ち枯れた1本の木が、あまりにも崇高で、近くで見上げることを思わず躊躇ってしまうほどだった。こんな骨格をたずさえた建築を、一度で良いからつくってみたいと思った。この木のように立てたら、どんなに素晴らしいだろうなと思った。

静かなところ

ただ奥へ奥へと道を歩くと鎮まるものがあるように、図面を描くために手を動かすと鎮まるものがあって、良いなと思う。そんなわけで、たくさんの線と数字で埋め尽くされた鉛色の図面を描いていると、まるで深い森のなかを彷徨っているかのような気分になることも、時にはあったりもする。些細な空想。

若い頃よく読んだ小説のひとつに「緑したたる島」という名前の短編がある。
小説の内容そのものも勿論とても好きなのだけれど、そのタイトルがそれ以上に本当に素晴らしい。

「緑」も「したたる」も良いのだが、なんといっても「島」がいい。
もしあの短編のタイトルが「緑したたる町」とか「緑したたる森」とかであったとしたら、その魅力は自分にとっては半減してしまいかねない。

「緑」が「したたる」のが「町」や「森」のような確たる場所ではなく、「島」というどこか遠くの儚い場所、流れ着く場所であるからこそ、現実世界から切り離された孤立したもののイメージがぼんやりと浮かんでくる。「島」という言葉に水や波のさざめくイメージが含まれているからこそ、「したたる」の言葉が生き生きと意味を帯びてくる。「島」という言葉にはどうやら自分を惹きつける不思議な力がある。

、、、というような、なんだか誰にも伝わらなさそうなことを、事務所へむかう玉川上水沿いの緑道を歩きながら考えた。雨の日の薄暗い湿原の池糖や浮島をぼーっと眺めに行きたいなあ、と梅雨空の下で思う。

背景

花を見る時に、その花の背景の暗がりのようなものに目がいくことがふえた。
なぜだろう。この花の背景も、なんだかとても静かだった。
寡黙な暗がりにささえられた、儚い幾何学のような明るい花。

わからない

わからないものは、わからないままでいい。わからないものを、わかったふりをして、わかったことにしてしまうことは、できるだけ避けたい。わからないものを、わからないままで「なんだか全然わからないけれど凄い!」と言えるままでいたい。

深夜。ある古いSFの短編を久々に読んだ。10年ぶりくらいに読んだ。

それは今の自分にも相変わらず全くよくわからないままであり、そして全くよくわからないくせにやっぱり震えがくるほど素晴らしかった。10年前とほとんど同じように、頭のなかに意味不明の電気的な稲妻のようなものが浮かんで消えた。目の前を言葉が疾走して、ホワイトアウトした砂浜の上で、はじけ飛んだ。なんだか少しホッとした。

わからないものは、わからないままでいいし、できることなら、わからないままでいたい。

ラーメン屋さん

いつだったか、最近のことではあるが、ラーメン屋さんのことを考えた日があった。自分がたまに行くラーメン屋さんの中に、たった1種類のラーメンの味だけを突き詰めている店があって、その店のひとのことをおぼろげに考えた日があった。

たったひとつのメニュー、たった1種類のラーメンの味を研究し、微調整をくりかえし、磨きあげ、つくりつづけることの中に、そのひとの生活があるということ。
あるいは、たったひとつの事を目指し、思い、つづけ、成し遂げ、きわめる、ということの中に、そのひとの人生があるということ。

たったひとつの事をやり続け、そのつくりかたを試行錯誤し、その先にあるたったひとつの味に思いを馳せ続けることのできるラーメン屋さんは、こころの奥が静かなひとでもあるのだろうか。。時にその静けさがスープの中に写しだされているかのように思えるのは、気のせいだろうか。。

などということを、なぜだかその日は考えた。たったひとつの事をつづけるということの尊さを思った。それはどんな表現でもどんな仕事でも、あるいはきっと建築でも、同じだろう。つづけること。ラーメン屋さんのように、ひとつのものを見上げて、つづけること。

だれもいない

山や森の奥で、古い集落の奥で、だれもいない場所を探すのはたやすい。
そうした場所への経路が絶たれたとき、だれもいない寡黙な場所を、どのようなところに見いだすか。どのようなものの中に見いだすか。

遠くのどこかを憧れるよりも、いま自分の目の前にある小さな風景のなかに入りこんで、そのありふれた風景のなかに、あるいはその向こう側に、そんな場所を見つけられたら良いのになあと思う。しかしそれは、めちゃくちゃむずかしい。。。

ありふれた小さなものの中にある静かなところ。脳みその中のひとりだけの宇宙。
久しぶりに、SFが読みたくなってきた。

ことばの角度

どんな言葉を言ったかということよりも、どんな角度からその言葉を発したか、どんなところに自分の重心を置いてその言葉を言ったか、がまずはなにより重要なんじゃないか。

どんなところから、どんなところを見据えて、しゃべったか。書いたか。考えたか。言葉の角度。それを言うひとの重心の低さ。見上げるものの高さ。

ものを言う角度には、そのひとの本当があらわれるときがあって、その言葉の内容よりもその言葉の角度のほうに、強く心を惹きつけられることがある。

道の写真

たとえば、ただの道を写した写真があるとして、
それを写したひとが、それまで歩いてきた道を振りかえって撮った写真なのか、これから歩いていく先の道を撮ったものなのかが、分かる写真が好きだな、と思う。

その道がそれを写したひとにとって、どんな道なのかが分かる写真がいい。それから、その道がどんなふうに歩かれてきた道なのかが分かる写真がいい。

それは写真だけではなく、表現にまつわる全てのことに当てはまることに違いない。などと思ったりもするのだけれど、それをどのように言いあらわして人に伝えたらよいのかは、相も変わらずさっぱり分からないままである。。

山の桜

今年はいろいろな場所にヤマザクラを訪ねにいこうと思っていたのだけれど、それは叶わぬまま、いつの間にやらすっかり春の時間は過ぎ去って、季節は早くも梅雨。
冬に行った小さな山々で「このあたりの桜が咲くところを春になったらまた見に来よう」とひとり密かに思っていたあの桜たちは、急斜面の途中や尾根道の傍らで、いったいどんな花を咲かせたのだろう。。
平地とは違う自然環境の中で、風雨の痕跡をその身に映しながらじっと立ち続ける樹木がほんの一時咲かせる花には、やっぱり心惹かれるものがある。

プミラ

植物が何かを感じて、それを姿やかたちに反映させる瞬間には、「かたち」が生まれる直前の生き生きとしたなにかが宿っているような感じがする。

春を感じて芽吹きをはじめるとき、風を感じてかたちを変えるとき、影を見つけて動きはじめるとき。
そこには「かたち」のはじまりにある素朴な感情のようなものが、確かな意思を持ってうごめいている瞬間があるような気がして、なんだか全くよくわからないまま、その瞬間が通りすぎてしまう前に、その場面をとにかくまずは記録しておかねばと思うことがたまにある。

んー、でも、言葉にするとやっぱり全然よく分からない。。

写真は今年の春先に枯れてしまった机の上のプミラの、冬頃のすがた。
地面を感じて、小さな力を振りしぼりグッと上を向きはじめたところ。

ひとが「かたち」をつくろうとした時にどうしたって入りこんでしまう「自意識」とか「恣意性」のようなものが、さーーっと消え失せたところで生まれる「かたち」に、憧れる。