カレンダーの上では8月はまもなく終わるけれど、
今年の夏はまだまだどこまでも続いていくような感じもする。
夕闇の頃、橋の上に大きな雲がしずかに水を滴らせながら昇った。
右のほうには、きれいな真ん丸をした白い月がとろんと浮かんでいた。
カレンダーの上では8月はまもなく終わるけれど、
今年の夏はまだまだどこまでも続いていくような感じもする。
夕闇の頃、橋の上に大きな雲がしずかに水を滴らせながら昇った。
右のほうには、きれいな真ん丸をした白い月がとろんと浮かんでいた。
少し前ですが、ホームページの「市原の家」と「自由帳」のページを更新しました。「市原の家」のページは、今まで載せていなかった小さな写真などをたくさん追加してみました。
「自由帳」は、しばらく更新を出来ていなかったのですが、ページのレイアウトや内容を完全に変えました。自分の手で描いたものや建築について思うことを、金田幸三さんの写真と、自分の図面と文章とで、つらつらと気軽な気持ちで書いていきたいと思っています。これから、こまめに更新していく予定です。
ページレイアウトの更新にあたっては今回も、このホームページをつくってくれた大田暁雄さんにお世話になりました。金田さん、大田さん、いつもありがとうございます。
鍵や丁番のような金物、
あるいはアルミサッシやシャッター。
そういった精巧な技術の集積によって出来上がった既製品の、
その図面を自分の手でなぞっていくと、
それらの構造や仕組みが少しずつ理解できてくる感じがする。
見えないところでそうした既製品を支えている小さな技術や知恵が
気のせいかぼんやりと見えてくるような気がして、
そうした技術を練りあげたひと、それを形にした見ず知らずのひとの姿が、
おぼろげに脳裏に浮かんでくる。そのひとたちに対する敬意を覚える。
目の前にあるモノの輪郭をなぞることは、
それをつくった名も知らない誰かの姿を辿っていくことに
どこかで繋がっているのではないかと思う。
その空間の光と影の重心がどこにあるかということは、
その場所に佇むひとの気持ちや心の静けさを
ほんの少し、左右するのではないかと思っている。
もしかしたら、あるひとが世界に対峙するときの重心の位置は、
そのひとの暮らす空間の重心に何らかの影響を受けていることだって
あるのかもしれない。
たぶん何事にも、ものごとにはそれ自身の重心がある。
その重心を探る感覚を大切にしていきたい。
遠方のある人とお電話をしていて、あるもののことを「もう届きました?」とお聞きした時、「郵便屋さんは毎日かならず○○時にうちに来るからさあ。その時間になったら持ってきてくれると思うんだよね。」とその人が言った。
それってすごく当たり前のことなのかもしれないけれど、その時の自分には、それがとても羨ましいことに思えた。その人と郵便屋さんとの関係、それからその関係を成り立たせているその町の空気、時間の感覚。
「郵便」という言葉が、空間から空間へと淡々とモノが転送されていく制度のことではなく、それを黙々と運ぶひとの存在を思い起こさせるものであるような、そんなおおらかな感覚のことを思った。
写真は、以前行ったある古い郵便局の建物。
郵便局の受付の空間って、なんだか良い。窓口の向こうに郵便をささえるひとが見える。そのひとに「宜しくお願いします」と言って郵便物を渡すひとがいる。自分も、遠くの誰かに郵便を出してみたくなる。
夕方、事務所のロールスクリーンの布地の上をゆらゆらと移ろっていた光。
斜めのラインがすーっと通り、やわらかな濃淡があって、きれいだった。
あたりまえのことだけれども、少なくとも自分が暮らしている場所では、いつも光は斜めから射してくるし、そうした斜めの光に呼応して屋根がつくられ、窓があけられて、ひとの暮らしが営まれてきた。
地球のどこかには光がまったくの垂直や水平に降り注ぎつづける光景もあるのかもしれないけれど、たぶんそれは自分にとってはとてつもない非日常の体験になるのだろう。山のうえで見る朝日や海のなかで見る夕日に感動を覚えるのは、その角度が水平に近づく一瞬があるからでもあるのだと思う。
もしまったくの垂直や水平の角度を保ったままひとを照らしつづける光があるとしたら、たぶんそこには自然の生あたたかさのようなものはなく、自分のような人間はそこで生きていくことは出来ないのかもしれないけれど、でもやはりそれは、ずっと見ていたいような光景でもあるのだろうなあと思った。
抑制されたものに、
何かがそっと抑えこまれたもの。何かがさっと消し去られたもの。
いつだったか、建築の図面というもの、
図面は、
その図面の中に、
それから、
たとえばもし、
0.5ミリのシャーペンでひく線は、
同じ濃さの、同じ太さの無機質な線を紙の上にきれいにひくのは、
だから図面を描くとき自分にできることといえば、
・・・・・
【掲載のおしらせ】
8/19発売の『住宅建築』10月号に「勝浦の家」「一宮の家」
家をささえる小さなものたちと、その図面についての特集です。
もしどこかで見かけるようなことがあれば、
もしかしたら誰も気にも留めないかもしれないような
かすかな、わずかな、小さな微調整をくりかえして、
描いた線を消し、新しい線を書き加えていくこと。
消し、描き、消し、描き、そしてふと気がつくと、
線と文字は一番最初の状態に戻っている。
嗚呼。。何たる徒労。。何たる無為。。何たる面倒。。
でもきっとそれが微調整というものであり、
その徒労の中に、なにがしかの建築のかけらが
あるのではないかとも時々思う。
モノの納まりを考えるということは、モノとモノの関係を考えることでもあり、
それは小説における「文体」にどこか少し似ているところがある。
文体は、きっと言葉と言葉の関係を考えること、調整することであるはずだし、
小説家が抑えこまれた自らの声を、人知れず静かに込めることの出来る空間でも
あるのではないかと思う。
台所という言葉の響きは、なぜだか自分には
「そこに暮らしのものが溢れている」という感じを思わせる。
それから、不思議な懐かしさと静けさを感じる。
(写真:金田幸三)
朝、自分の目の前で、数人の鉄骨屋さんがこの図面を握りしめ、
ものすごい速さと軽やかさで鉄のフレームを立てていった。
そのスピード感はなんだか鉄の軽快さを思わせるところがあり、
職人さんの佇まいというものが彼らが扱う素材に影響を受けているものなのだ
ということを、そのときはじめて思い知らされたような気がした。
立面図を描くとき、
これからその家に暮らすことになるひとたちの佇まいを
具体的に思い浮かべながら描く。
家の構えは、その家に暮らすひとの姿を思わせるものであってほしい。
薪ストーブのうしろのコンクリートの壁は、
大工さんが木目がくっきり浮かびあがるように
浮造り加工をしてくれた杉板をつかった。
薪ストーブの下の床は、
左官屋さんがコテで仕上げてくれたモルタルに
金属の目地棒を埋めこんだ。
薪ストーブの手前には、お施主さんが
自分の手でつくったスツールを置いてくれた。
3人の手の跡が、火をかこむようにして浮かんでいる。
(写真:金田幸三)
「引き出し線っていうのはさあ、大工さんや職人さんに伝えたいことを
図面から『引き出す』線なんだよ。だから、か細い線なんかじゃなくて
グッと太く引き出さないと伝わんないんだよな。」
深夜、ある飲み屋さんで、たまたま出会った施工図屋さんが、
そんなことを言いながら、テーブルの上からグッと手を引き上げる仕草をした。
ハッとした。それまでのっぺりとした平面だとばかり思いこんでいた図面が、
立体になって立ち上がってくるような感じがした。
(写真:金田幸三)
建具屋さんがつくった玄関戸に、
大工さんが引手をつけてくれることになった。
大工さんは、かつてそこに建っていた家に使われていた
赤みがかった床柱を解体時に保管しておいてくれていて、
その柱の一部を引手の正面に取りつけてくれた。
毎日触れるところだから、と言って。
(写真:金田幸三)
これは、なんというか、
最も金田さん「らしい」写真ではなかろうか。。
竣工写真の撮影で、窓ガラスを歩く蚊を撮る男。
写真、金田幸三。
ひとの手が、誰かの頭を必要とするのは、
モノとモノとがぶつかるところ。
職人さんの手が、ふとその場で立ちどまって
どうしようかと考え込むのは、モノとモノとがぶつかるところ。
枠廻りを描く時はそんなふうに考えて、
すぐに休んでしまいそうになる自分の手と頭を励ましてみる。
面倒だー、あー面倒だ―と思いながらも、
モノとモノとがぶつかるところに冴えない手と頭を全力で注ぐ。
ある現場で描いた線というのは、
その現場の監督さんや職人さんの顔や声と、
記憶の中で繋がっている。
図面のむこうに時たまその人たちの姿が浮かぶ。
元気かなあ、と思う。
洗面室と浴室の間の扉やガラスの納まりは、
もしかしたら、建物の中で一番気をつかう箇所かもしれない。
さまざまな材料、さまざまな職人さんの手が交差しながら、
水と床とが出会うところ。
こういう図面を描きながら四苦八苦していると、
スタッフ時代、一番最初に担当した現場で浴室の暗がりの中、
ひとりタイルを小さく切っていたタイル屋さんの背中を思いだす。
その時のタイルを切る手の動き、
灰色のタイルが切れていく音。
なぜだろう。とてもよく覚えている。
架構というものは、大工さんのその建物への思いを記した
寡黙な言葉のようなものかもしれない、と思う。
その静かな言葉に学びたい。
(写真:金田幸三)