そこに住まうひとが日々の暮らしの中の
ふとした瞬間にみつけた風景は、きっと美しい。
誰かに用意された風景を眺めるのではなく、
自分の足で、自分の目で、小さな風景をみつけたいなと思う。
すべての風景はあらかじめ既にその場所にそっと存在していて、
すべてのひとに開かれているのではないかと思う。
その風景をみつけること。その風景をちゃんとみつめること。
(写真:金田幸三)
そこに住まうひとが日々の暮らしの中の
ふとした瞬間にみつけた風景は、きっと美しい。
誰かに用意された風景を眺めるのではなく、
自分の足で、自分の目で、小さな風景をみつけたいなと思う。
すべての風景はあらかじめ既にその場所にそっと存在していて、
すべてのひとに開かれているのではないかと思う。
その風景をみつけること。その風景をちゃんとみつめること。
(写真:金田幸三)
設計というものは、遠くのほうに霞んで見えるものを
線と文字を数字をつかって、
自分の手元に手繰り寄せていく作業のことかもしれない。
何重にもかさねたトレーシングペーパーの束を見ながら、
時たまそんなことを考える。
それは、早朝、朝靄につつまれた集落のむこうに見え隠れする山へと
入っていくあの時間と、どこか似たところがあるような気がする。
(写真:金田幸三)
うまくなくても良い。
何度消しても、こんがらがっていても良い。
虚飾のない、まっすぐな線を描きたい。
(写真:金田幸三)
ずいぶんむかし、いまはもう無い、ある鉄工所のひとに向けて描いた図面。
記憶の底にある、分厚い手のひらと、太い声と、ニヤリと笑う目。
ユーモアにあふれた、小さな鉄工所のひと。
左官の壁の色味を決めようということになって、
左官屋さんが3種類のサンプルをつくってくれた。
お施主さんと大工さんと現場に集まって、
3つのサンプルを眺めた。
たぶん左官屋さんは、それが乾ききる前に大工さんに
そのサンプルを渡したのだろう。
3つのうち、ひとつのサンプルにだけ、
大工さんの飼い猫の足跡が点々とついていた。
まるで自分はこの色が良いと言いたげなようだった。
お施主さんは迷わずその色を選んだ。
(写真:金田幸三)
自分の手で黙々と木を刻んできた大工さんたちの知恵には、
いつだって言葉にすることのできない深さを感じる。
その思考の静けさ。その佇まいの寡黙さ。
刻み小屋に流れる静寂の時間。照れくさそうな大工さんの横顔。
この検討図を見ると、雨戸の戸袋の内側のことを
延々と考えた夏の日々を思いだす。
街を歩いて家々の戸袋を見る。
その内側がどうなっているのか妄想を膨らませながら歩く。
なんとかしてあの雨戸の内側に入って、その骨組みの寸法を知りたい。
古い家の、吹きつける風雨に耐え続けてきた戸袋の、その構造を知りたい。
日に焼けた板が打ちつけられた戸袋の、
その内側の暗がりに入っていくことばかりを考えて、
しまいにはもはやいっそのこと、蚊か何かになってしまいたい気分になった。
線を描いて、寸法を書き込み、文字を入れる。
そのあと線で囲われた白い部分をハッチングする。
自分の手描きは誰に教えてもらった訳でもなく、
勝手にはじめた完全に我流なものであるから、
ハッチングの種類はいつだって試行錯誤を繰り返している。
ハッチングのグレーの色の濃さが線の密度で決まるというのは、
きわめて平凡で当たり前のことなのだけれど、
色の濃さと線の密度の関係をこれほど深く考える瞬間というのも
よく考えてみると、普段の生活の中ではなかなか無い。
だからハッチングを繰り返し描いてから、ふと周囲を見渡すと、
いつものモノがちょっとだけ変わって見える。
モノの色が線の密度に変換されて見えるような気がしてくる。
ひとの視覚というものの不思議を感じる。
本当にわずかばかりでも良いから、素材の木口に、
それを切ったひとの姿が映ったら素晴らしいなと思う。
機械をつかって切ろうが、のこぎりをつかって切ろうが、
木口があるということは
それを切ったひとがどこかにいるということなのだと思う。
(写真:金田幸三)
コンピュータばかりを使って図面を描いていた頃、
レイヤーというもの、層というものは、
あまりにも普通にそこに存在するものだから、
その存在を意識することは稀だった。
その頃は、レイヤーというものがまさかこんなにも厄介で
面倒な奴だとは思ってもいなかったし、
世界はもっと平坦で単純に出来ているものだとばかり思いこんでいた。
(写真:金田幸三)
机に張りついて、無我夢中で図面を描いている時の脳内には、
まさに、この写真みたいな景色が広がっている。
だから、図面を撮影してもらってこの写真が送られてきた時、
自分の頭の中が感光されているかのようで、ほんとうに驚いた。
写真:金田幸三
我ながら、小さい頃から全然文字が上達しないなあと思う。
丸文字である。しかもかなり平凡な丸文字である。
万年筆でさらりと手紙を書ける人、文字と文字を川の流れのように
ひとつの筆で繋げて書ける人に、憧れながら暮らしてきた。
でも、手描きで図面を描くようになって、
図面の世界の中でだけには、なんだか下手くそな丸文字の居場所も
あるような気がしてきた。
「丸文字の人は設計屋に向いている。」
そんなことをある時誰かに言われた。
それが誉め言葉なのかどうか、結構怪しんでいるのだが、
下手は下手なりに、丸文字は丸文字なりに、
自分の手で文字を描いていけば良いのだろうと思っている。
既にそこにあるものが語っている言葉を、
いま自分の目の前にいるひとに伝わる言葉で語りなおすこと。
古い建物の改修は、翻訳をすることに似ている。
(写真:金田幸三)
どこかの山を歩くことと、紙の上で手を動かすこと。
そのふたつは、とてもよく似ている。
どちらも効率が悪く、単なる徒労で、人間のエゴで、
どうしようもなく時間の無駄で、
その過程の中にほんのひととき静かな一瞬がある。
自分の頭や、あるいは大工さんの頭に
思い浮かんでいた建物の像がかたちになる。
建物がお施主さんの手に渡り、
いよいよその家をあとにしようとする夕暮れ時、
ぽっと部屋の電気がつく。
暮らしがはじまるなあと思う。
ふと嬉しくなって、家のほうを振り返る。
毎日毎日、驚くほど同じような平凡な出来事のくり返しの中に、
ほんの一瞬、わずかにそれまでの日と違うことがある。
食器を洗って、洗濯物を干す。
事務所へと歩いて行って、珈琲を淹れる。
それから、生活ってそんな感じかもしれないなあ、と机の前で思う。
そんな生活の器を考えるのが、自分の仕事なのだろうなあと思う。
このくらいの縮尺で図面を描いていると、
線を追いかけているような気分になりながら、
いつしか線の森の中に迷い込む。
しかし、ふと机から身を起して図面から離れてみると、
全体を見渡せるような一瞬もある。それが1/6の縮尺の良さだろうか。
それは、深い森に包まれた谷を歩いていて、
ある時いったん稜線に出て山の全容がわずかに見える、
あの一瞬になんだかとてもよく似ている。
工事がおわり、写真を撮影させていただいた際に、
お施主さんがお昼につくってくれたタンタン麺。
美味しかった。忘れられない。
(写真:金田幸三)
時たま、風景が色や意味を失って、
たくさんの線の連なりに見えてくる時がある。
たまに東京の都心へ行って、
息をすることさえ出来ないような密度で
びっしりと建物が並んでいる風景を見る。
そうした建物たちをつくるために描かれたであろう
膨大な数の線を想像してみる。
それから、それを描いたひとを想像してみる。
無数の線で埋め尽くされた町を思う。
線になった風景を思う。
下町の路地裏にある小さなアパートに住んでいた頃。
部屋の前に迷宮のように広がる細い路地は、
塀や壁や扉や襖で仕切られた小さな場面の連続で、
さまざまな生活の音に溢れた舞台だった。
誰かが帰ってくる気配がして、
錆びた鉄の階段がコツコツと音を鳴らす。
冷蔵庫の扉がバタンと閉まる。
フライパンの音。猫の鳴き声。ビニール袋がかすれる音。
それから食器の音がして、笑い声。静寂。
窓がガラリと開いて、洗濯機のスイッチが入る。
椅子をひく音。
TVの中でしゃべるニュースキャスター。
それから笑い声。野良猫が誰かを呼ぶ。
路地に住んでいる時、自分の耳は本当にたくさんの町を、
たくさんの場面を想像していた。
いつかその路地の断面をスパッと切って、
自分の身の回りで起こっていることの断面図を描いてみたいなあ、
などと考えているうちに時は経ち、
いつしかその路地は記憶の底のほうへ沈んでしまった。