
道路拡幅予定地にて。
周囲をぐるっと仮囲いで囲まれて。
でも我関せずといった風情でのほほんと立っている。

道路拡幅予定地にて。
周囲をぐるっと仮囲いで囲まれて。
でも我関せずといった風情でのほほんと立っている。

机の横の窓から。
秋は毎年、気づいた頃にはあっという間に過ぎて行ってしまう。

綺麗な水色の水盤。
底面の素材によって、こんな表情が出せるんだ、と唸らされました。
まさに水の色のイメージそのものが顕されているような。
この浅い水面を見つめていたら、なぜだかアメリカの小説家トルーマン・カポーティの文章が頭に浮かんだりもしました。『遠い声、遠い部屋』。それから『叶えられた祈り』。物事のどうしようもない浅さと、おぼろげに揺れる記憶のこと。
ともあれ、水がゆらゆらと揺らめく様子は本当に心が鎮まります。

小さな川の土手。
草むら、という言葉にある響きの素朴さと土の匂いが好きです。

「手がけたもの」のページに、「長生村の小屋」「市川の窓辺」をUPしました。

津軽の伝統、こぎん刺しの製作図面(らしい)。
この無機質なグリッドを通して、あの暖かくも複雑な幾何学模様が生まれるのかと思うと、とても面白い。建築の図面にも大いに通じるところがあるような気がします。

岩木山。
弘前からのリンゴ畑越しの遠景。
大地に深く深く根を張りながら、同時に神々しいまでに美しい津軽の象徴。
何度見てもその崇高な存在感と佇まいに、ただただ圧倒されます。

しばらくかかりきりだった実施設計がひとまず少しひと段落。。
先日テレビで、とある将棋棋士が他の中堅棋士の棋風を評して「大地に根を張ったような将棋」と言っていて、その言葉の響きにふいに心を打たれた瞬間があって、そのことを今日、ふと思い出しました。
写真は昨年訪れたアントニン・レイモンド設計の札幌聖ミカエル教会。
レイモンド独特の軽やかで素朴な木造架構を、深く地面に杭を打ちこまれたかのような表情で寡黙に支え続ける基礎まわり。
ものの成り立ちの最も深いところで、そのもの自体は何も語らずに、でもはっきりとそこに在って、黙々と何かを支えるもの。そのことの表現。
中野重治の小説『梨の花』に出てくる、「底土」という言葉を少し思い出しました。

ふと見上げたところに、唐突な秋の一瞬。
不意に訪れるものは、どうしていつだって澄んでいるのだろう。

昨日の朝の代田橋、玉川上水。
水面に写る木立がとても綺麗で、ふと以前見て感動した鈴木理策さんの写真展『意識の流れ』を思い出しました。もう3年も前か。意識の深くまで沁みてくる、素晴らしく澄んだ展示でした。

事務所前。朝日の中の木立。

水盤の端部。
自然風による水面の揺らぎとその反射。水の跳ね。水のエッジ。
最近、水と関係のある建物の設計に関わっていることもあってか、水の見せ方や現象が気になって、よく注意して見ることが多いです。

馬房。藁と窓と壁だけの空間。
暗がりの中にひっそり佇む馬。
食べること、寝ること、遊ぶこと、それから眺めること。
その全てがこの小さな空間のなかを少し動くだけで完結してしまう、シンプルで素朴なすみか。

静内。朝の空と街。

ぼんぼん。としか言いようのない触感的な風景。
特に写真の彩度をいじった訳でもないのですが、なんだかやたらとサイケデリック。

札幌。光と影。

建物の間口と、屋根の勾配と、屋根の重みと、
軒の出寸法と、破風の見付と、破風の勾配と。
それら全てが連関しあってはじめてできるもの。立ちこめるもの。
ただその場所で、ずっと昔から空気を吸って吐いてを繰り返し、通りを過ぎ去っていく人たちをじっと見つめてきた、自然体のおおらかな屋根の佇まい。その素朴。その翳り。憧れます。

届け物をしに、自転車で高田馬場へ。
帰り道、神田川沿いの道を上流へと向かってゆらり、ゆらり。

外房、勝浦へ。
おそらく今後忘れることのないであろう、素晴しい時間を過ごさせていただきました。この経験と記憶を糧にして、またコツコツと地道に頑張りたいと思います。
ご協力いただいた皆様、心から、ありがとうございました。

常磐線に乗って、水戸へ。
縁あってこの街に始めて関わってから、もう10年。
訪れるペースは以前より緩くはなってしまったものの、自分にとってはいつも訪れるたびに刺激を受けることのできる大切な街です。