すれ違うとき

ガランガラーン。ガランガラーン。
誰もいないと思っていた朝の山道で、うしろからではなく前のほうから低い熊鈴の音が聞こえてくる。

山頂までは長い長い一本道のはずだから、あの音は山頂からおりてくるひとの音だろう。やがて薄暗い杉木立の巻き道のむこうから、大きな荷物を背負ったひとがひとり、ルンルンと楽しそうな調子を漂わせながら下ってくるのが視界に入った。

リーンリーン。チリーン。
前からくる音を聞くために立ち止まっていたところから歩き出したとき、今度は自分のザックにくくりつけてあった熊鈴が高い音を鳴らした。

むこうから下りてきたひとは、ちょっと歩を緩めて、意外そうな表情で遠くからこっちを見ている。こんな地味な尾根をこの時間にあの村のほうから登ってくるやつがいるなんて。たぶんきっと、そんなふうに思っているに違いない。

ガランガラーン。リーンリーン。ガラリーン。

ふたつの熊鈴の音が近づいて、それから巻き道の途中ですれ違うとき、チラリと背中の荷物に目をやった。日帰りの山には到底持っていくことのないだろう大きな黄色のザックのうえに、銀色のマットがくくりつけてある。

山小屋もテント場もないこの山で、あの銀色のマットを持ったひとが早朝に上のほうから下りてくるとしたら、そうか、あの避難小屋かな。だとしたら、このひとは麓の村のひとだろうか。きのう山頂の避難小屋でひとり夜の山と戯れたあと、早朝に小屋からおりてきて、このあと何食わぬ顔でいつもの仕事場に行くのかもしれない。

すれ違うとき、消え入りそうな声で「こんちは」と低く言ったそのひとは、気まずそうな照れくさそうな、ちょっと不思議な表情をした。そのひとの心のなかに浮かんだかもしれない小さな不安や遠慮のような何とも形容のしがたい感情が、自分にもはっきりと分かるような気がするから、だからこちらも小さな声で「こんにちは」と言って下をむいて静かにすれ違った。

きのうの夜の真っ暗闇の時間から、この尾根の道のようにすーっとなだらかに連なってきたのかもしれないそのひとの中のルンルンとした穏やかな調子が、どうか自分の存在によって遮断されませんように。

リーンリーンリーンリーン。自分の鈴の甲高い音を聞きながら、さっきのひとの踏み跡を逆方向に辿っていく。このまま尾根を登って稜線にでれば、たぶん今頃はカタクリの花が咲いている頃だろう。
すれ違ってしばらくしてから立ち止まって、遠ざかっていく黄色いザックのほうを振り返ってみる。ガランガラーン。ガランガラーン。しーんとした山の斜面のむこうから、熊鈴の音が調子よく響いていた。