ありふれた時間

よく晴れた朝。

事務所に行って、仕事の用事がひとつ終わって、午前10時。窓の外のイチョウの木を見あげる。机の横からふわりと入ってきたやわらかい風を感じて、そうだ、やっぱり金田さんの写真を見にいくなら、風のないあたたかい、のほほーんと春めいた平日の真昼間。それに限るなと思って、事務所をでた。

菜の花が咲いた土手を横目に、緑道のみちをてくてくと歩いて電車に乗る。岩本町まで行ってから、御徒町にある展示の場所まで、20分少々。あたたかい陽気につつまれた町のなかをのんびりと歩いていく。
橋のところに桜が咲いていて、その鮮やかなピンクの色が水面に淡く映りこんでいるところを1枚写真に撮る。川の真ん中あたりの空中を気持ちよさそうに羽をのばした鳩が静かにすべっていく。春色のコートを来た女のひとや、スーツを片手にかかえた男のひとが、橋のむこうから歩いてくる。

イヤフォンの中では、若かりし日のグレゴリー・アイザックスが歌うゆったりとしたロックステディがはじまって、グラッドストーン・アンダーソンのピアノがやわらかい旋律を奏でている。
脇道にそれて、そこからまっすぐ、日の当たる道を北にむかって歩く。途中、何度か行ったことのある飲み屋さんの前を通り過ぎながら、あーそういえばあのひととは全然飲めてないなあー、あの時このあたりで飲んだ同級生たちとは結局あれ以来会えてないなー、なんて思う。

ズンチャズンチャ、ジャーン。

もう50年以上も前の遠いジャマイカの古びた音質のドラムとギターのリズムが途切れて、グラディの甘いピアノが鳴りやんだ。そろそろかな、もうこのあたりかな、と思って前を見ると、白っぽい砂の敷かれた小さな公園があってその横が目的のお店だった。

お店に入って小さな展示をゆっくり見て、珈琲の香りをかいで、それから店内をふらふらと歩きまわってから、次の写真館の告知が書かれた紙を1枚手にとった。

外に出て、お店の前の公園に戻って、ベンチに腰掛ける。真昼の日射しがぽかぽかとあたたかい。ザックの中に入れてきた水筒の紅茶を飲んでいると、3羽の鳩がランランと目を輝かせて一目散にこちらにむかって駆けてくる。なんにもないよー、食べ物はなんにも持ってないよー。そう心の中で呟いて、鳩の背中に影を落とす木のほうを見あげると、ほっそりとした大島桜が立っていて、あ、ここで写真を撮るのも良いかもなと思う。さっきの紙を取り出してみる。

そうしたら、西の方角からゆるやかな風が吹いてきて、薄い紙が桜の木の下にふわりと舞った。

たぶん、金田さんの写真のいいところは、そんなふうに、なんとなく続いていく、なんてことのないふつうの毎日の、ふつうの時間の、ふつうの感覚のなかに、その写真が存在できるところ。写真を見るために、特別な感情になったり、腕を組んだり、たいそうな思いをいだいたり、背伸びをしたり、肩に力を入れたりする必要がないところ。てくてくと春めいた気分で歩いてきた、そのふわふわーっとしたなにげない気分のまんまで、いられるところ。

見る前も、見た後も、撮る前も、撮った後も、その写真の前後にはどこかの誰かのなにげない時間が途切れることなく流れていて、そのありふれた日々の中に、さりげなく、すーっと、まぎれこんでいけること。

頭のてっぺんから靴の先まで。それぞれのひとの全身がゆるい構図の中にすっぽりと自然体でおさまっているところを見て、「ひとの姿をトリミングしたり、切ったりしたくないんだよねー」とかそういえばいつか言ってたなー、なんて思いながら、来た時と全く同じ道を岩本町までてくてくと歩いて戻った。
それから電車に乗って、線路の上を揺られながら戻っていくうちに、さっき見た写真の印象は早くもぼやけはじめてきて、うとうととうたた寝をしてしまう。ふわり、ふわり。ガタン、ガタン。ガタン、ガタン。

あっ、と気づいて目が覚めると最寄りの駅についていて、ホームに下り、土手に咲いた小さな白い花を眺めながら真昼間の緑道をまっすぐに歩く。それからつい数時間前まで座っていた事務所の机の前に帰ってきて、午後1時ちょっと前。水筒の紅茶をすすりながら、とりたててどうということのない今日の数時間のことをなんとなく言葉に残しておこうかなと思って、いま、これを書いた。