それまでよりも少しだけ気温がさがった、ある晴れた日の朝。毎日のようにその横を歩いて通りすぎている線路脇の小さな斜面の、よく見慣れた草花たちがいつもよりも明るくて、白かった。思わず道を渡り、土手のほうに近づいて、その色が消えてしまわないうちに何枚かの写真を撮った。
その白はやっぱり安物の携帯カメラの写真には全然写らなかったけれど、なにはともあれそれを撮った。何かの空間の中にいるときに、たまーにこれとどこか似たような白がぼんやりと見えるように思える時があるなあとか思いながら、それを撮った。
この白に似たようなものが見える時、その空間は空っぽで生き生きとしていて明るくて、なんだか自分のほうにもその空気がすーっと流れてこんできて、自分自身も含めたその場所の全体がさっぱりと澄んでいるように思う。過去を振り返って考えてみると、そういうことを感じる空間は、もはや作者が誰だかも分からなくなったような古びた名もない空間だったりすることが多いだろうか。
そういう場所は、それをつくったひとの想像力と、それを見ているひとの想像力とが重なっている場所なのかもしれない。そんな場所はちっとも息苦しくなくて、生き生きとして、がらんとしている。それをつくった作者だけの想像力で満たされた空間にはない、自由なものの気配がする。
そんなふうにして斜面の白をぼけーっと眺めていると、土手の上を電車がとおった。休日の朝の電車はがらがらで、ほとんど人影はなかった。空っぽの車内には角度をさげた秋の光が窓からたくさん入りこんでいて、明るかった。そのがらんどうの光の箱のようなものが通りすぎる時にかすかな風が生まれて、目の前の白がふわふわとゆれた。