古びた建築を見ているとき、その建物や空間に宿されている比例や均整のようなものに唐突な共感や不可思議な懐かしさを覚えることがある。
比例や均整というものは、その建物の「構え」や「重心」を決定づけるものであり、その建物をつくった誰か、描いた誰かの身体感覚であったり世界との距離感(世界の中での自分自身の理想の立ち方)であったりを反映したものでもあるのだろうなと感じる。
いつかの時代の名前も知らない誰かと、そこから遠く隔たった場所にいる自分とが、そこに遺された建物の比例や各部の寸法の均整によって結びつけられること。
寸法というただの数字の存在が、いくつかの時代や場所を飛び越えて、遠くの誰かの身体の底をかすかに揺さぶる可能性があるということが、建築が遺っていくことの意味であり、図面の中に線と数字を書き連ねていくことの面白さでもあるのかもしれない。そこにはきっと、幾何学というものの影が霧のように漂っているのだろう。
夏の終わりのある朝、山の麓の小さな建築を見上げながらそんなことを少しだけ、考えた。