「硝子戸の中から外を見渡すと、霜除をした芭蕉だの、赤い実のった梅もどきの枝だの、無遠慮に直立した電信柱だのがすぐ眼に着くが、その他にこれと云って数え立てるほどのものはほとんど視線に入って来ない。書斎にいる私の眼界は極めて単調でそうしてまた極めて狭いのである。」
漱石の『硝子戸の中』の書き出しはそんなふうにはじまるが、小屋の土間の古い網戸の内側から外を見ていると、その「極めて単調で」「極めて狭い」視界の中の平凡な情景をつぶさに観察して記そうとした漱石の感じの、その中のせめてほんのひとかけらくらいの感覚は、自分のような凡庸な人間にもなんとなく分かるような気がしてくることが、あったりもする。
古いものの内側から遠くの新しいもののほうを眺めると、そこにはぼんやりとした距離のような、余白のようなものが生まれる。そしてひとの内側は、なんだか静かになってくる。古いものの価値は、たとえばそんなところにも、あるのだろうか。