森を歩いていると、いろいろなものたちが自分を出迎え、
どこかに導いてくれているかのような錯覚を覚えることがある。
風に揺らされる葉っぱの音、鳥の声、ひらひらと舞っていく蝶。
先日は、森の道を悠然と歩く大きな一頭のカモシカに出会った。
自分の行く道の先を、自分と同じ方向に歩いて行くそのカモシカの後ろ姿の雄大さ、自信と思慮に満ちた揺るぎなさに、言葉にしがたい様々な感覚が胸の奥にざわめいた感じがした。
道の先を、一歩一歩、あまりにも確かな足取りでゆったりと、
悠然と森の中へと消えていく黒い大きな後ろ姿。
自分がとぼとぼと歩いていた道は、まるで彼が歩くためにつくられた廊下であり、彼が暮らすためにつくられた大きな家の一部であるかのようだった。
彼がこれから眠るために還っていく場所は、その道の先、落ち葉の山をかき分け、ゆるやかな起伏の連なりを経た深い森の、そのずっと奥深くにあるのだろう。
自分のような人間は目にすることもできない、森の向こう側の静かな場所。
ほんの一瞬の出来事ではあったけれど、彼の、その雄大な揺るぎない足取りの先にある、鎮まりかえった深い空間のことを思った。