東京があんまりにも暑かった8月のある日、自宅の部屋とは20℃くらい気温が違うであろう山の上の涼しいテントの中で、眠りすぎて寝坊をした。
池のところに行くと、頭の赤いきれいな鳥が2羽、せっせと何かをついばんでいた。きのうはそこにリスがいて、夜には鹿が何度か鳴いた。小屋のひとは結局その日は来なかったから、峠のほうで激しく吹いている風の音をのぞけば、とても静かな夜だった。
テントをたたんで、峠にむかってとぼとぼ登っていくと、昨夜のテント場で一緒だったひとが引き返して戻ってくる。森林限界を抜けると今朝は強風がすごいから、今日は潔く目当ての山を諦めるという。「これで2度目の撤退」と言って、すがすがしい顔でそのひとは池のほうへと早足で下っていった。
峠にでて、それから森林限界をぬけない道を歩いて風裏を行く。途中ですれ違って話をしたおじさんは「今年の山小屋の値段は、ほんとに暴騰だよなあー」とかなんとか、しきりに愚痴を言いながら、テントを背負った背中はうきうきと楽しそうだ。今日は前に来た時のリベンジなのだという。帽子につけたオニヤンマくんがルンルンと風にゆれている。
ふたつほどピークを越して、それからもうひと登り、赤石のまじったガラガラの急坂を登っていったところの山頂で、この日すれ違ったひとたちとは、すこし感じのちがうほっそりした年配のご夫婦が、ゆっくりとした足取りでむこうから歩いてくるのが見えた。
山頂は樹林帯の中だから、そこから少し外れたところの見晴らし場まで一足先に行ってみる。誰もいない見晴らし場はものすごい暴風で、一面のガスが真っ白にたちこめて、眺望はまるでない。雲が、とてもはやく流れている。
しばらく待ってみようかと岩の上に身をかがめて座っていると、先ほどのご夫婦が樹林帯の出口のところから出てきて、強風とガスの中に立っている。なにかをしゃべっているけれど、風の音でこちらには何も聞こえないし、その姿もガスのむこうに霞んでいる。雲が行ってしまうまで何か食べ物を食べていようかなあと思ってもぞもぞとザックの中をのぞきこんでいると、ぐおーーっとさらに強い風が吹いてきた。
「晴れた!!」
雲と風をつんざいで奥さんの明るい声が響いてきて、顔をあげると一面の、見事な蒼い山々だった。