基礎屋さんと自転車

電車や車はあまり好きなほうではないから、
普段から東京の町は自転車か徒歩で移動している。

現場にも、それが例えば自転車で片道1時間半くらいの距離の場所であれば、
雨が降っていない限りは、基本的に毎回、自転車で通う。

木造の家の場合、最初に行われる工事は基礎工事なのだが、
基礎屋さんと話を出来る機会というのは意外と少ない。

大工さんや電気屋さんとはその後何度も会うことになるから、
いろいろと楽しい話をしたり勉強をさせてもらったりも出来るのだけど、
基礎屋さんとは顔を合わせて打合せをしたりはするものの、
ゆっくりと話をしたりすることもできず、いつもなんだかもどかしかった。

いつだったか、ある時、真夏のよく晴れた日に、いつものように
1時間半くらいの道のりをのんびりと自転車を漕いで現場まで向かった。
鼻歌なんぞを歌いながら、夏空の下を漕いでいった。

ちょうどその日は基礎工事がおこなれている日で、
現場に到着すると、はじめて会う基礎屋さんが2人で作業をされていて、
現場の前に自転車で到着した自分を見てチラッと顔をあげた。

「自転車で来れるってことは、近いんですか?」
「えーと、1時間半くらいのところです。」

はじめて会う基礎屋さんは「マジで??」と言って笑った。
顔をあげて2人とも笑った。やっぱり自転車での現場通いは
やめられないぞ、とひとり静かに心の底で思った。

小さな夏

開け放たれた窓から見える広々とした青空と入道雲の風景に夏の気配があるのは当たり前のことだけれど、時には暑さのあまり閉ざされた部屋の中にふとした隙間から差し込んでくる小さな光から夏の気配が静かに零れ落ちてくるようなこともある。

どこか遠くへ行くことが制限され続けることで逆説的に生き生きとした遠くを想像することがあるように、たったひとつの調味料で味付けされた食べ物がさまざまな味覚を呼び覚ますことがあるように、抑えこまれ、絞りこまれたものだけが伝えることのできる何かがあったりもするように思う。

消えていくもののかたち

ひとけのない小さな里山を歩いていると、細い道すじや踏み跡が植物たちに覆いつくされ、消えていこうとしているところに出くわすことがある。

ひとがつくった道や痕跡が、その人工物としての明快さや明瞭さを失い、植物たちのなかに溶けて、どこか遠いむかしの状態に還ろうとしているかのような風景。

そこには、その人工物を消していこうとする「時間」や「自然」の存在がぼんやりと不明瞭な状態のまま可視化されているようなところがあって、美しいなと思う。なにかの痕跡が消えていくところに、それでもまだなお存在する「かたち」があるとしたら、それはどんなものだろう。

トタン板

「『この屍、どうにも手に負えなんだのう』トタン板をかいて来た先棒の兵がそう云うと『わしらは、国家のない国に生まれたかったのう』と相棒が言った。僕がこの場で聞いた人間の声は、トタンかきの2人の兵が交したこの言葉だけである。」

古いノートに書きつけてある『黒い雨』の一文が、今日たまたま目に入った。幼い頃、教科書かなにかではじめて鱒二のその小説を読んだ後、湯船につかりながらその静けさをぼんやりと想像してみたことを、ふいに思い出した。

山の道をつくった人

山に道があるから、そこを歩く人は花や木を見ることができる。山に道があるから、ひとは風景を自分の足で見つけることができる。道が、そこを歩くひとに道ばたの花や木の素朴な価値を伝える。

たった1本の道が、何千もの風景をうみだす。
たった1本の道が、ひとをどこか遠くの場所へと連れだす。

その1本の道をつくるために、たくさんの思いや生活が注ぎ込まれる。いくつもの手がその場所の土を突き固める。谷に木を渡し、石をならべる。それからその道の上を数えきれないほどの足が歩いていく。たくさんのひとがその道の跡を辿っていく。

その過程で、長い時間のなかで、その道をつくったひとの存在や思いはたくさんの踏み跡の背後にすーっと消えていき、ついには道そのものの存在さえもゆっくりと消えていって、風景だけがそこに残される。

細く長くのびていく山の道を歩いて、その道をつくったひとのことを考えた日があった。目の前につづいていく踏み跡の、その奥深くに消えたもののこと。この道をつくったひとたちのように、建築をつくっていけたらなあと思った。