置いていく

「粉のうえに水を置いていくような感覚で、少しずつゆっくりお湯を注いでください。」

だいぶ前に買った珈琲の袋にたしかそんな言葉が書いてあったことを思いだして、一歩一歩、自分を置いていくような感覚で、1年前に歩いたのとまったくおんなじ道をてくてくと登った。

雨あがりのよく晴れたあたたかい日で、稜線にでるとすこし強めの風が吹いていた。富士の頂から白い雪煙が青い空を流れていくのが見える。シジュウカラがいろんな鳴き声をだしながら、木々の間を飛んでいる。ほっそりとしたたくさんの枝たちと地面をうめつくした枯れ葉があんまりにも真っ白で、その全面的な白さのなかに黄色い花がところどころで瞬くように咲いている。

山頂から、たぶん今日のこの時間には誰も通るひとはいないだろうなあ、と思う方向へと道をくだった。その道の先にある、あんまり名前の知られていない小さな山に寄ってみようかなとも思ったけれど、荒れた痩せ尾根を往復することになるからそれはやめて、道からそれたところにあったひろびろとした斜面に座ってお昼を食べた。

お湯を沸かしていると、痩せ尾根のあたりからカサカサと落ち葉を踏む音が聞こえる。ひとが歩いてくるわけはないから、動物かな、鳥たちのいたずらかな。そう思って斜面から道のほうをあおぎ見ると、すっと背すじをのばした女のひとがひとり痩せ尾根の方向から静かに現れて、まっすぐに前を見据え、地面を一歩一歩踏みしめながら、確かな足取りで山頂にむかって歩いていくのがみえた。

さっきまでの風もやわらいで、きのうの雨で湿った枯れ葉が春の日射しに焼かれていく匂いがする。足元の落ち葉の束を拾ってその下を覗いたら、小さな幼虫たちが「何の用ー?」と言わんばかりの寝ぼけまなこの表情でこっちを見上げた。詫びを言って、もう一度土のうえに落ち葉を被せる。まだ時刻はお昼前。沢のほうにくだっていく前に、このふかふかの斜面のうえでうたた寝をしていくことにした。