在ることの奥行き

遠くにあるがゆえに気配を気づけないものがある。すべての要素があからさまではない状態を保持できる奥行きのようなものがあって、自分はそういうものに興味がある。

というようなことをある音楽家が語っているのを目にした。
山や森を歩いていて時たま同じようなことを思う。遠くにあるがゆえに気配を気づけないものだってあるし、近くにあるがゆえにハッキリと見えすぎてしまうものもある。空間には奥行きというものが、深さというものがある。あらゆるものに耳をそばだてたところで、すべてのものの気配を感じとれる訳ではない。

遠くにあるものと近くにあるものとを強引に同じ地平に並置して、その視界の明瞭さや手法の新鮮さを誇るようなやり方もあれば、遠くにあるものと近くにあるものとのコントラストをことさらに分かりやすく強く対比していくようなやり方もあるのだろうとは思うけれど、たぶん自分が山を歩いていて面白いなと感じるものはそれではないし、空間のなかに求めているものもきっとそれではないような気がする。

遠くにあるものは遠くにあって良いし、近くにあるものは近くにあって良い。

遠くにあるものも近くにあるものも、ただその場所に在るものたちがそこに在るということを肯定することのできる何かを少しずつ探してみたい。それらのものたちの間にどうしようもなく横たわる距離や差異をそのままの状態で肯定することのできる何かを探してみたい。その何かはもしかしたら、いつかどこかで歩いた山や森に似た姿をしているのかもしれない。