ひと

山で見たひとについて記憶に残るのは、なぜかいつもたいてい後ろ姿。

深さ

森の中を歩きながら、カメラをぱっと出してシャッターを押そうとすると、
安物のカメラでは焦点が一向に合わず、ぼんやりとピンボケの風景しか映らない。

そんなことが結構ある。

そうした場所にはたいてい、
簡単に写真のなかに写すことが難しいような「深さ」がある気がする。

カメラのピントがすぐに合ってしまうような浅い「風景」ではなくて、
全方位からひとの身体をつつんでしまうような深い「空間」。

たとえばアルヴァ・アアルトの建築。
それから、前川国男の晩年の建築。

それらの素晴らしい建築には、独特の空間の「深さ」があって、
その根っこには、もしかしたらこんな森の風景が広がっているのではないか。
そんなことを時たま考えます。

ひとが還っていく場所の原型は、
ピントの合わない森のなかに隠れているのかもしれない。
(もしくは、ただ単に写真を撮るのが下手なだけなのかもしれない。。。)

雲のかげ

見渡すかぎり誰もいない草原のうえを、雲のかげがゆっくりと動いていた。
八木重吉の「白い雲」のような景色。

表紙

ホームページのトップページを更新して、スライドショー形式に変えました。

それから「自由帳」のページについてもなかなか手つかずの状態が続いていたのですが、ちょっと形式を変えてみる予定で、これから時たま更新をしていこうと思います。

このあたりの更新は、このホームページをつくってくれた友人の大田暁雄さんが行ってくれました。大田さんの「アイデア」誌での連載も先日全8回の最終回を迎えたとのこと。地図好きの方は是非ご覧下さい!

 

海と小屋

北海道。夏になると、毎年一度、必ず訪れる街がある。
そのたびに、この古びた小屋の前を自転車で通り過ぎる。

多くのひとにとっては、たぶん気にも留めないような、
ありふれた些細なものであったとしても、
誰かにとってはそれが、他の何ものにも絶対に代えがたい
重要な存在であるもの。

それがただそこに「存在している」ということ自体が価値であるもの。

この小屋は自分にとってはどうやらそんな存在で、
遠くの海をじっと見つめて黙りこくって立っているその姿に、
なぜだかいつも、心を打たれてしまう。

太平洋

昨夜の風。千葉は、外房は大丈夫だろうか。
とにかく無事と、少しでも早い平穏を祈っています。

夏の家

オーシャンブルーの現在のすまい。
羨ましいくらい、良い小屋!

小さな山

遠くの海に浮かぶ、名前も知らない小さな山。
きれいな三角錐の形を描いているように見えました。

自分が美しいと思う建物の佇まいは、
もしかしたら、あの山みたいなものなのかもしれない。

水蒸気

山のうえの霧とか、川のほとりの水蒸気とか、
湿り気のある環境の、水につつまれるような心地よさと、
視界がぼやけるがゆえの不思議な安息感は、やはり、何ものにも代えがたい。

乾いた空気の下では、いろいろなものの形や輪郭や音が
くっきりと明瞭になりすぎているのかもしれず、
霧の中では、水の粒子がその尖った輪郭をぼんやりとやわらげてくれるからこそ、
そんな穏やかな心地よさが体感されるのかもしれないなあ、などと思います。

うまく説明できないのですが、なぜかそこに、大地を感じます。

外灯

夜の港にでる道。

耕すひと

尊敬するひとが、いろいろな土地にいる。

そのひとたちの暮らす場所を訪ねさせていただいているうちに、
自分が尊敬するのは、なにかを「耕している」ひとなのではないかと、
最近、ふと気がついた。

土を、畑を、森を、あるいは庭を、
自分の身体をつかい、太陽の下で黙々と耕すひと。

そして、そのひとたちが丁寧に、地道に、心をこめて耕してきた土地のうえに、
ある日突然、そんなことなど全く気にもとめぬ顔で、ピカピカの建物が建てられる。

「建築をつくること」と「耕すこと」の間には、途方もなく大きな溝があって、
その溝はどんどんどんどん大きくなっていく。

その間に、なんとかして、小さな小さな橋を架け渡すことができたら良いのに。

そんな考えをぼんやりと、でも確かに抱きながら、
毎日を暮らし、設計をしていきたい、と思った。

更新

「勝浦の家」のページの写真を更新しました。

建築写真は並び順や構図をほんの少し変えるだけで、
その建築の印象が大きくガラっと変わることがあって、
それはとても楽しくもあり、同時にとても気をつかうところでもあります。

その建物での暮らしや、その建物をつくった職人さんたちのことを、
写真をつかってシンプルにきちんと伝えるにはどうしたら良いか、
毎回、ぼんやりと考え込んでは、少しずつ手直しを加えてみています。

欅の木

夏。見事な立ち姿のケヤキの木。
すっと立つ幹のうえに、ぱあっと広がる、まあるい形。

ひとがつくる家も、この木のように雄大に、
おおらかに佇むことが出来たら、どんなに素晴らしいだろう。

手仕事のひと

少し前に行った、あるお寺の境内の庭。

照りつける太陽の下、麦わら帽子姿のひとが2人、
地面に膝をついて懸命に庭の手入れをしていた。

その人たちの後ろ姿は、やはりとても美しかった。

庭も建築も、そんな黒子のような人たちの
丁寧で懸命な手仕事の力によって生かされている。

自分の携わってきた建物も、当然のことながら、
同じようにいろいろな職種の人たちの見えない手仕事の集積によって、
この世界になんとか建っている。

そのことを、その人たちのことを、
どうやったらうまく、ちゃんと、伝えられるだろうか。

花火

7月の夜、山頂から周囲を見渡していた時に、
山の裾野近くの町で花火があがった。

何発もあがったその花火は、山から見ると驚くほどに小さく、ちっぽけで、
どこか愛らしい感じがした。

ゆらゆらと広がる大地のなかに浮かんだ花火は、
いつもよりも真ん丸に見えて、幾何学的だった。

カメラをむけると瞬く間に消えてしまった。

霧

7月、いろいろなところで霧に出会った。

山道に咲いていた白い、小さな花。
なんの花だろう。
力強い、凛とした幾何学を感じた。

空の小屋

丘のうえ。

湿原の植物たちのなかに身を潜めて、
空の中にそっと自分の屋根を浮かべるような、
寡黙で、しかし力強い存在感をもった山小屋の佇まい。

ただただ憧れる。。

伊勢

朝。伊勢神宮。

圧倒的な木の構築。
たちすくんで、震えた。

霧がでていた。