地味な山

自分はどうやら、地味な山が好きだ。
なかでも、葉っぱが落ちてあたり一面が土色に染まる冬の季節は、すごくいい。

夏の空、素晴しい眺望、色とりどりの花、山頂の雲海。
そんな劇的な風景も勿論素晴らしいし、心から感動する。

でも、鮮やかなもの、劇的なものに期待をしながら山を歩いている時の自分は、
道の脇に立つ素朴な枯れ枝に射す光や、
ぬかるんだ土のなかに潜む小さな生き物や、
木の幹に刻まれた風や雨の痕跡を、きっと見過ごしてしまっているに違いない。

同じような地味な道を繰り返し繰り返し黙々と歩いていると、
山のなかの小さな差異、小さな命、小さな陰影に、
いつもよりすこしだけ敏感になれるような気がする。

ひとりで歩くのは、地味な道でいい。

朝靄

小さな山の朝。
たちのぼる空気。

境界

京都、無鄰菴の庭。

個人的にとても好きで、ここ数年、関西方面に行く機会があるときは、
ほぼ必ず訪ねているのですが、毎回新しい、小さな発見があります。

去年の夏、訪れたときに気づいたのは、庭の境界の美しさ。
ひとの手で丁寧に手入れされた、小石の道と地被類の海のグラデーションに、
なんとも言えない清らかさを感じました。

庭をはき清める、という言葉の意味を改めて考えさせられると共に、
その淡々とした繰り返しの行為の中に潜んでいるのであろう沈黙に満ちた静かな時間について
庭の片隅でおぼろげな想像をめぐらせました。

去年の年末。小雨まじりの日。
列車の待ち時間に山間の町を歩いた時。

ぴゅうぴゅうと冷たい風のふく小さな橋に差し掛かったところで、
蒼みがかった暗い川のむこうに、突然、真っ白に輝く稜線が見えた。

土の道。わだち。誰がいつ、どんな乗り物でつけたものなのか。
勝手に想像を膨らませながら、てくてくとわだちの跡をおいかけるのは、
やっぱりちょっと、楽しい。

おじさんの花束

先週の、冷えこんだ曇りの朝。
いつもの道を自宅から事務所までてくてくと歩いていて、
小さな交差点で信号待ちをしていた時のこと。

交差点の反対側にある、膝の高さくらいの低い手摺で囲まれた小さな緑地帯、
というか、もはや平凡な雑草の茂みのようにしか見えない場所に、
スーツ姿の人影が動いているのが見えた。

信号が青になったから、
横断歩道をその茂みのほうへと向かってゆっくりと渡った。

低い手摺に囲まれた雑草の茂みの中では、
よれた感じの黒いスーツのズボンをはいて、白いワイシャツの上から斜めに
肩掛けかばんを下げた、おそらく出社前のサラリーマンなのであろう、
ひとりのおじさんが、ごそごそと何かをしている様子だった。

横断歩道を渡る人たちは、おじさんには目もくれず、
駅にむかって足を急がせていく。
おじさんは、逆にそんな人たちには目もくれずに、
下をむいて一心に何かをしている。

こちらが横断歩道をゆっくりと渡りおわって、茂みに近づいた時、
おじさんがふいにすっくと起き上がって、顔をあげた。

その時、おじさんの左手には、ぎっしりと草花の束が握られていた。

自分には凡庸な雑草の茂みのようにしか見えなかったその場所で、
スーツ姿のおじさんが、それらの草たちを楽しそうに摘んでいた。

通行人は相変わらずせわしなく駅へと向かって急いでいる。

おじさんは、左手に持った草花の束をぎゅっと握ったまま、
茂みの中から足をあげ、手摺をまたぎ、
揚々とした足取りで駅とは反対の方向に、交差点を渡っていった。

茂みの中からふと顔をあげた瞬間の、おじさんの、
どこか少年のような明るい顔が、寒い冬空の下でぼんやりと目の奥に残った。

トタン

駅前再開発によって空き地になったのであろう場所。
近く、この周囲一帯もすべて更地になってしまうのかもしれない。
古ぼけたトタンの壁が夕日に光っていた。

藪のなか

正月の山。素朴な道。知らない誰かの足跡。
冬の低い光が射しこんで、とても暖かかった。

垂直の森

歩きつづけた山道のなかで、ふいに出くわした蒼い森。
恐ろしさと崇高さが同居してるような、不思議な幾何学空間。

写真

年始から、事務所のインスタグラムのほうにも、
去年撮りためて放置していた写真をいくつか挙げてみています。

車や電車の中からではなく、自分の足でてくてくと歩いた中で見つけた場所。
自分が心惹かれる、ありふれた小さな景色と空間について。
https://www.instagram.com/tadashima.architects/